夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

神秘学入門。

期限が来た”アウトサイダー”を図書館に返却し、そのなかで紹介されていたヘルマン・ヘッセの”ガラス玉演戯”を受け取ってから、なんとはなしにふらふらと哲学のコーナーへ行った。

そこでまたこれもなんとなく手に取ったのが高橋巖”神秘学入門”。

神秘学入門 (ちくまプリマーブックス)

神秘学入門 (ちくまプリマーブックス)

このコーナーは実は僕に池田晶子さんを紹介してくれた正に”縁”のコーナーであるのだが、引き続き池田さんの著書が多数常備されているのが嬉しい。

まあ、世間一般に哲学といえば池田さん、とまではいえない状況であろうから、これはここの司書のかたのあるいは慧眼では無いか、と感じるところである。

そこの部分はさておいて、いや、この神秘学入門、一読(途中だが)驚いた。プラトンソクラテスグノーシス孔子、仏教、そして昨日たまたまこの場所で書いたヘッセの”デミアン”のこと、そこで特にアブラクサス、その思想をヘッセはユングの”死者への七つの語らい”から得ている、ということが書かれているではないか。

まあ、このこと自体はヘッセやユングを研究する皆さんには基本情報なのだろうが、たまたま取ったこの本のなかに、正に僕が昨日考えていたことがそのまま出てきたりすると、すこしく”シンクロニシティ”を感じるところだ。

デミアン (新潮文庫)

デミアン (新潮文庫)

ユング自伝 2―思い出・夢・思想

ユング自伝 2―思い出・夢・思想

赤の書 ―The“Red Book

赤の書 ―The“Red Book"


「魂はまったく孤独だ、という思いと、私の心とお前の心はひとつだ、という思い、この二つの、それぞれ真実の、それぞれ長い文化伝統をふまえた思いが出会うところに、現代の私たち自身の神秘学の課題がある、と思うからです。」(同書 P.107)

デミアン”でシンクロニシティを感じたが、実は魂といき方を追究せざるを得ない人たち(=魂)を”アウトサイダー”(すでに”アウト”になってしまうところが現代におけるこの問題の位置づけを図らずも示してしまうのだが)と呼んだ昨日のコリン・ウィルソンの立場と問題意識に、この本は何と近いことだろうか。

また、アウトサイダーでは彼方にオボロゲに浮かんでいる、東洋的な思想、というものが、その本場(場所的に=霊的?にはもはやそうともいえないが)で本来あるべきこの日本の地でよむには、どうしても隔靴掻痒的にならざるを得ないのであるが、その部分が神というものへアクセスフリーな立場である(バイアスを比較的感じない風土の)日本人ならではのバランスを以って織り込まれているのに気づいた。白川静の”孔子伝”を引用されているところなぞは、基本書が示されるだけでこころ強い。

孔子伝 (中公叢書)

孔子伝 (中公叢書)

神秘学”というと神秘に関わることを歴史的に学ぶ学問か、とつい思ってしまうのは、僕にも学問とは考えることではなく学ぶこと、という悪しき意識が染み付いているからだろうか。ここでいう”神秘学”とは、本来の”哲学”でいう、考える為の学問、という色合いが強いことに気づいた。これは大変魅力的な学問である。

まあ、”経済”には(直ぐには)利きそうにないので、実学を求める昨今の大学教育にはそぐわないだろうが、しかし、生業とて生きること。本質的にはいかに生きるか、を体現することこそ真に生きる=生きる霊的な糧(力)を得る、ということになるわけで、これは実は遠回りなようで、実は最強の”生きる力”を学ぶ学問なんだろうが。

そこの”遠回りなようで”が致命的なんだよなあ。ここでもう我慢できない。大変に、惜しいところである。まさに”教養”の王道なのだろうが。

・・・しかし考えてみると、子供の頃より、”社会っていうのか、この政治とか生活の場っていうのか、惜しいよなあ”と常々感じてきたのはなぜなのか。そしてそこから逃避する回路として、例えば漫画、例えば本、を使用し、その後ろにある作者の思想に接し・・・、とやはり真実は周りというよりは人類の膨大な知の体系・記憶である本(広い意味で)のなかにあり、と思うところである。

そしてそこから”自分で考えなさい”と叱咤していただいた池田晶子さんという知性の素晴らしさ。正に導師、まさに(神の声を伝える)巫女。

とまたまた池田さんに自然に結びついてしまうのがここの特徴なんですが。

そうそう、この本ではこのような知性をヌース(霊性)と呼んでいる。叡智とも訳されるが、”霊”ということばは(幽霊のように)いろいろなものが染み付いているので、この日本では特に安易に使えないが。しかし、的確な訳語であると思う。