夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

善と悪。

ユング自伝2 p.111より。

仏陀の生涯は自己(セルフ)の現実であることがわかった。そしてその自己が個人の生涯に侵入して、権利を主張したのであった。仏陀にとって、自己はすべての神々を超えており、人間存在と世界全体の本質をあらわす「ひとつの世界(ウヌス・ムンドス)」である。自己は存在そのものの側面とその存在の認識される側面とをともに包括している。自己なしには世界は存在しない。仏陀は人間意識の宇宙進化論(コスモゴーニック)的な尊厳を見ており、理解していた。それ故仏陀は、もし誰かがこの意識の光を消滅し尽くせば、世界は無に帰してしまうことを、はっきりと観じていた。”

ユング自伝はいわばユングの遺書のようなものかもしれない。

文字通りの”自分史”。自己の来し方を振り返り、みずからの思い、モチベーション、行為の理由、なにをどうしたかったか、どう感じたか、が書かれている。

特に2は人生の”実りの時”、果実を取り込む時の思いが表出されており、非常に興味深い。

思えば、グノーシスに興味を抱いたのも、ユングおよびヘッセ(デミアン)であるから、そしてヘッセとユングは(間接的)関連がある同時代人であるから、そういう意味でも僕にとって興味深い本である。

欧州人がアジア文化をどう見るか、という視点、キリスト教での善と悪、相対的なアジア、あるいはインド的な善と悪、その把握と超越へのアプローチ方法の比較は、印象に残る。

日本の地に生まれた僕は、悪を相対的、善と地続きのものとしてみている可能性がある。

キリスト教的な考えでは、そうではないようだ。あくまで善と対立するもの。

この指摘は確かにそうだ。

要は”悪を心から排斥するか。認め取り込む要素があるか”だ。

悪は弱さ、つまり、すぐそこに在る誰でもそうなる可能性のあるもの、と、確かに僕は考えている。

それを取り込み、ときには味わい理解して、善に繋げるべし、と。

そうか、キリスト教的には、そうではないのか。


常に敵のもの、あってはならないものなのか。


それが悪魔。





しかし、それでは、超越は難しい気がする。


この辺りが、”文化の違い”というものであろうか。


しかし、冒頭に引用した仏陀の項、この理解は相当深いものである気がする。


心理学、といっても、哲学、と地続きなのである。

だから池田晶子さんの本にも、しばしば述べられるのであろう。

ユング自伝 2―思い出・夢・思想

ユング自伝 2―思い出・夢・思想


異文化との接触、アフリカ、インド、中国文化。


ユングのなかで化学反応が起きているのが、伝わる気がする。


p.106

”私がインドでとくに関心を抱いたのは、悪の心理学的性質についての問題であった。インド人の精神生活のなかで、この悪の問題は統合されていたが、その統合のされ方に私はひどく感銘を受け、その問題を新しい角度から眺めた。(中略)
東洋人にとって道徳の問題は、われわれの場合のように第一義的な問題とならないようである。善と悪とは、東洋人にとって意味あるものとして自然のなかに包括されており、同一の事象の程度の差異に過ぎない。”