夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

一、離脱、貧しい心。

エックハルトを読んでいる。

エックハルト説教集 (岩波文庫)

エックハルト説教集 (岩波文庫)

きっかけはいろいろある。まずはダミアン。ヘッセの作品でデミウルゴスの名を知ったこと。

この名は、それほど有名ではないだろう。

グノーシス、ということばはそこから知った。ヘッセがあって、グノーシスを知ったのだ。

デミアン”は”車輪の下”とともにヘッセの代表作とされていると思う。学校で推薦図書になってしまうと、あるいは文学史に出てきてしまうと、なんだか読むのが嫌になる。

本来読みたいものを読む自分の時間を、文学史に出てくるから読もうかということは普通はない。作者、名前、はい終了だ。

デミアンもそうであった。だが、何年か前、新聞の読書欄でデミアンが紹介されていた。ヤングアダルト向け、というくくりだったと思う。

高田美苗さんの美麗な銅版画とともに紹介されたその作品には、学校の勉強とは違う世界へと誘うオーラがあるように感じたのだ。

読者をある書物に導く。とうぜん紹介者はその本が大好きだ。

で、読んだ。

ありきたりのコトバであるが、衝撃を受けた。


ヘッセってすごいな。


それからはヘッセの作品はほとんど読むことになった。

池田晶子さんの著作もそうだが、あと、マンガもそうなのだが、気にいった作者の著作は、たどらざるを得ない。どんな作品でデビューしたのか。どの作品が最後なのか。

作品を通じ、作者その人の魂が浮かび上がってくる思いがする。

なんだかこれもありきたりの表現になってしまうが、作品を通じて作者と会話している感じがする。

そこで知ったグノーシス


ここでも池田さんに絡むが、池田さんは仏教、特に禅仏教に関心を寄せられていたと思う。

禅、の考え方は、あるいは、仏教それ自体の考え方は、たぶんグノーシスと近い。そしてエックハルトの考えもまた。

もちろんグノーシスエックハルトは違っている。だが本質のところは極めて近いと考えている。

すなわちここだ。

”神は私のなかにいる。”


この考え、不遜として、あるいは組織としてのキリスト教会が存続するためには、異端となるのだろう。

事実、エックハルトの言説は、彼の死後であるが異端とされたという。

禅は、そして仏教は、本来そうした考えに親和性があるようだ。

死んで仏になる。

死者は仏である。


菩薩とな仏に将来なるものでその途上にあるものである。


要は、”私が仏あるいは神である”、というのが仏教であり、グノーシスであり、エックハルトである。

その考えを退けるのは、神はあくまであなたではない、神は神であり別のもの。あなたはその神にすがり、天国へゆき復活べきものである、というのが教会という組織を守る意味でのメジャーキリスト教である、というのが自分の勝手な認識である。

なぜそう思うか。

そうでなければ異端を火あぶりにしないではないか。

あなたが神と一である、という教えと、あなたは神にすがるべきなにものかである、というものを比ぶれば、さてどちらが魅力的な教えであるのか。

答えは多分明白である。

危険だ、組織が存続できない。

異端として火あぶりに処す。


・・・とこうなったのではないだろうか。


もちろん日本人たるワタクシ、深い神学の勉強をせずにいっている。だがあの魔女裁判、異端者の火あぶり。どうも不自然だ。なにかあるぞ、と思っていた。

そこでエックハルト

きちんと読んだのは初めてだ。

だがどうもなかなかすごい人のようだ。特に後世への影響に於いて。

紹介した本の解説で、訳者でもある田島照久氏が書いている。

すこし引用する。


一三二九年、つまりエックハルトの死の翌年、三月二十七日付の教書「主の耕地にて」において時の教皇ヨハネス二十二世は審査委員会から提出されたもののうち二十八のエックハルトの言説について、そのうち十七を誤りあるいは異端であると断じ、残り十一を極めて大胆な言葉であり、異端の疑いの濃いものであるとした。この異端宣言によって、エックハルトの著作及び教説の聞き書き写本の一切が禁止され、処分されることとなったのである。

P.295 解説より

そう、エックハルトは異端とされ、本来はこうして僕が本を読むことが叶わぬはずなのだ。だのになぜに。その内容の魅力の所為である、というのが僕の理解である。

主流とされるこの考えより魅力的ではないか。

これは、この教えは伝えねば。


そうした心が、後世にエックハルトを伝えてくれたのである。

解説の中で田島氏はおっしゃる。


それは密かに伝写され、カタコムベの内や、教会や修道院の付属図書館の奥深い闇の中に眠りながら、現代へと伝えられてきたのである。

と。


なぜそうせざるを得ないのか。それに接したものがその魅力に、あるいは本質性に、読むだけでは納まらない、伝えなければ、という思いを持ったのではないか。本来は異端とされた文書であるのにもかかわらず。

エックハルトの考えは、弟子に引き継がれドイツ神秘主義という流れを形成する。

さてこの”神秘”とはそもそもそういう意味だろうか。神の秘すべき奇蹟、ということだろうか。はじめはそう思っていた。

でもそうかなあ。。。


図らずも(教会の手前)秘さざるを得なくなった真の神のことを学ぶ。

すくなくとも当事者はそのような意気込みではないのだろうか。

そして更に、テンションが思わずあがったのは、名作”自由からの逃走”を著したエーリッヒ・フロムもまた、エックハルトの示した所有と有との違いを大きく評価し、”エックハルトこそ、完全な有へと到達するために、我執と自己中心主義の足かせから、つまり、所有のあり方から、われわれを自由にしてくれる人間であり、われわれの目標とすべき人物であると語る”(同上、P.300)。


そして更に、ヘッセがデミアンを著すにあたりその影響を顕著に受けたと思われるユングもまた、”エックハルトを、「自由な精神の木に咲く最も美しき花」と『アイオーン』の中で称えている。”。

ここで、グノーシスエックハルトの親和性を確信した。



エックハルトを読むことになったのはやはり池田晶子さんのおかげである。彼女の著作を読まなければ、僕がエックハルトを知ることは無かったであろう。

ありがとうございます、池田さん。脆弱な頭脳の足のもつれたバトン走者ですが、出来るだけいただいたバトンを大事に致します。