信仰が根づき、開花するのは、結局は生身においてである。信仰にかかわるあらゆる理説あらゆる実践の適否は、生身の身体によってしか検証され得ない。だから、身体を持たない信仰主体は存在できないのである。
内田樹の研究室 2022年3月25日より 太字は引用者による
魂と身体が別の存在であると仮にするのであれば、魂は魂のみで別途「存在」するステージがあるかもしれない。無いかもしれない。
それは「輪廻転生」に通じるかもしれないし、しないかもしれない。
そしてそれは永遠に「肉体を持った人類」にはわからない、ことだろうと感じる。
もし仮に「魂」のみのまま、「身体+魂」状態である「生身」を見ることができるのなら、その「魂」は「生身」と自身の「魂のみ」の状態を比較して、先に引用した内田先生の言説によれば、「自身は信仰に入ることができない」として、ある意味うらやましくおもうものだろうか。
信仰、とはもどかしさ、わからないものに肉薄したい、という思いと似ている。決して示されないであろうとありありと感じられる「生と死」の問題に、なんとか答えがないものか。そうした叫びが、ある意味「肉体のくびきに捕らわれた状態にある魂」の叫びこそが、信仰となるのかもしれない。
魂のみの状態、が仮にあったとして、魂は「死を経験して」おり、「肉体と分離済」であるので、そこではもはや「生身での信仰」というものは行えなくなる。
内田先生がおっしゃっているのは、たぶんそういうことではないのだろうが、浅学なる(レヴィナスも合気道も嗜んでいない)私にはそう感じられたのだ。
長い間のレヴィナスとの対話(翻訳、という作業を通しての)。長い間のご自身の身体との対話(合気道や能楽の修行を通しての)。これらを経て到達された境地は、私にはうかがい知れぬわけであるのだが、こうして文章にしていただくことが、そのかすかなきっかけに自身の中でなってくれれば、とも思っている。
(長い修練を経て初めて開示される境地なのでしょうね。。。)