肉体が、乗り物である、という言い方がある。
用語は別にして、ウィルバーのいう”目撃者”(全から分離した全の一部で死すときに全に還るもの)が、意識や(か)魂や(か)、あるいはエゴかを通してこの肉体を動かしている、とするのなら、
全てに偏在する全の一部は、大きい、小さい、遠い、近いの本質的な差異はなくあるわけであり、
であれば、この木、このほこり、このひかり?にもそれは微細ながら小さいわけではなくあり、
ではこのあり、蚊、犬、ねこにも同様にあることは、つまりそうである。
自動車にSPECがある通り、犬や猫にもSPECはあり、それは脳か声帯かは格別、語り合うことはできない。
だが、ここで今野良にある猫を撫でて交流するときの、彼我の魂に差があるとは思えない。
ともに”目撃者”がある。
というか、この猫のほうが、より”目撃者と自然に在る”。
だから動物をどうこうということではないが、
事実としてそうだなあ、という。
そんな乗り物である肉体が、乗り物である車を運転する。
これもウィルバーのいう、ホロン、であるのだろうか。
すべては入れ子。マトリューシカ構造。
あれは相似の肉体が脱皮する蛇のように在る形態だが、
じつは深い哲学があるのかもしれず、
あのマトリューシカに惹かれる我々も、
なにかをあの構造から感じているのかもしれない。
美しい肉体。強い肉体に憧れる気持ち。
速度の速い、デザインが美しい車に憧れる気持ち。
結構同じ根っこ、なのかもしれない。
装身具もそう。
しかし、その構図が見えると、本質的な興味はうすらぐ、あるいは執着が減少する。
とそうなるのかもしれない。