夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

サイゼリアとギーターと瞑想と座禅とクリシュナ神。

昨日は来客があり、昼食に「かつうどん」を食べた。

そして夜は夜とてサイゼリヤに行ったところ、昨今のウクライナ情勢が影響したのだろうか、輸入チキン不足により2品あるチキンメニューのうちチーズ掛けのほうが販売中止であった。

安くてボリュームのあるチキンと言えばサイゼリヤであると思っているのだが、輸入に頼るもので生鮮系のものはやはりきついようだ。

本当はグリーンピースブロッコリー、アスパラガスに100円ワインをと思っていたのだが、今後は残ったチキンメニューももう食べられないかもしれないと思って、急遽チキンを食べることにした。

サイゼリヤのチキンには、糖質としてのコーンやポテトが付け合わせてあり、グルテンではないにしろ、AGEの面ではポテトは本当は避けたいところだが、残せなくて完食した。

予定通り、体重は1キロ増えて66.3キロであった。体脂肪率は13.2%と危険水域に。。

こうしてわざとらしく体重に一喜一憂しているが、これを書かないとなかなか日記を書きだせないのだ。いわばお約束的助走ですね。。

 

さて、バガヴァッド・ギーターを引き続き読んでいる。

クリシュナは神であり不生の存在、自身の意思で何度もこの世に権化する存在である、と自らのことを語っている。

一方でクリシュナが従者として仕える王子アルジュナも、クリシュナによると「覚えていないが何度も転生している」ということだ。

従者は一番重要な家来が担ったといえ、そもそも神が従者という設定は意外性があり面白い。そしてアルジュナは自身の従者、従うものであるクリシュナが神であることを知りつつ、戦に参加したくなくて、その「したく無さ」を契機にいろいろ教えを乞うている。

従者、という語が、主に従う下位のもの、という感じを生むのだが、ここではいわば賢者(ここでは神だが)がアドバイザーとして戦場に一緒に来てくれた、という感じに近いのだろうか。

だが、もしクリシュナ神は主で、王子が従うものであれば、そもそも神が人間と戦うことはないだろう。あくまで傍観者であり導くものでなければ、この説話が成立しないのである。

ギーターが昔からインドの皆さんに親しまれているのだとすれば、そこにはごく自然に「輪廻転生」がある。五感による身体の感覚が生むもの、脳髄で考えたことがら、理性、それらすべては勿論であるがこの世のものであり一過性である。そう、クリシュナは説いている。

これには納得感がある。「あの世」なるものがあろうがなかろうが、霊というものがあろうがなかろうが、それより前に、たまたま得ているこの肉体で、たまたま得ているこのSPECで、得るものはいわば「とことんたまたま」なものだ。

真我といわれるものが、神としての全の一部であるのなら、真我はこの「たまたま」を経験し、たのしんでいる、という整理もできるだろう。

人は、生命は、生物は、鉱物は、物質は、

この世の「経験」を結果的に得るために、「時間」と共にある。

そう、まあ「信じる」ではなく「設定する」こともできそうだ。

そこにはあまり「意思」がないように思う。ここで「他者の意思」を想定してしまうと、「では他者とはだれか」という疑問が湧き、そこに「他者なんているわけがない」という直感も沸いて、「妄念だ」という判断になる。

だが、物質が時間という考え方と共に在ることは事実である。この世がすべて夢であったとしても、夢としてのこの世の中に確かに「我」「私」はあるように思われる。

なので、「他者の想定による妄念だという直感」を避けるべく、「他者はいない」あるいは「他者とは我だ」あるいはシンプルに「一」と考えるのがいい。

という感じにいまはなっている。

まあ、ただ単に、ちょっと、考えているだけですが。

VRで瞑想するのが素晴らしい、と勝間和代さんがおっしゃっていました。ちょっと興味ありますが、私は浴槽の中で座禅もどきですこし座るくらいです。浮力があって楽(笑))