夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

今できないことは無いことになるのかどうかを考える。

進化論や天動説と地動説。

今まで信じてきたことをひっくり返すような説を聞いたときの、通常の人の反応は少なくとも反発が最初にくるのだろう。

それが人生の心情や、生きる上のよすがとしていた「前提」や「信念」や「宗教」に関わる、と感じることであればなおさらだ。

罪を憎んで人を憎まず。

己に罪のないものがこの女を石もて打て。

人を叱るときは事象を修正することに専念し、相手の人格を否定・攻撃してはいけない。

そういった人がつい陥ってしまう、「人を憎んで罪を憎まず」や「自分に罪があっても、この場で虐げられている人間をとりあえず人の目も気にして打つ」や「人を叱るとは人格攻撃とイコール」という構えを、ついついやってしまうことを、戒める格言が数多くある、ということからみてもごく普通の人間心理であると感じる。

これは人間の「動物性」なのだろうか。

私はどちらかというと「自身を生き残らせるための戦略=善悪を無視した」であると感じる。要するにDNAの要請だ。

こうれにはある程度従う必要があるだろう。いわゆる古来からの知恵、に属する部分だろうからだ。

だがこの教えの「身も蓋も無さ」=「人を蹴落として自身が生きる」という特性をもまた、いつも考えておかねがならないだろう。

私は内田樹先生の研究室を愛読している。また最近スピルバーグの「シンドラーのリスト」を見た(初見である)。

村上春樹の「騎士団長殺し」も読んだ。この物語もナチスユダヤ人虐殺が関係している。

3月25日の「内田樹の研究室」でユダヤ人であるレヴィナスホロコーストによりもはや神が信じられない、というユダヤ人青年たちに語った言葉が紹介されている。

そういう人たちに向かってレヴィナスはこう語った。では訊くが、あなたがたはこれまでどんな神を信じてきたのか? 善行をするものに報償を与え、悪行をするものには罰を下す「勧善懲悪の神」をか? だとしたら、あなたがたが信じていたのは「幼児の神」である。
 なるほど、勧善懲悪の神が完全に支配している世界では、善行はただちに顕彰され、悪事はただちに処罰されるだろう。だが、神があらゆる人間的事象に奇跡的に介入するそのような世界では、人間にはもう果たすべき何の仕事もなくなってしまう。たとえ目の前でどんな悪事が行われていても、私たちは手をつかねて神の介入を待っているだけでいい。神がすべてを代行してくれるのだから、私たちは不正に苦しんでいる人がいても疚しさを感じることがなく、弱者を支援する義務も免ぜられる。それらはすべては神の仕事だからだ。あなたがたはそのように人間を永遠の幼児のままにとどめおくような神を求め、信じていたのか?
 ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である。人間が人間に対して犯した罪の償いや癒やしは神がなすべき仕事ではない。神がその名にふさわしいものなら、必ずや「神の支援なしに地上に正義と慈愛の世界を打ち立てることのできる人間」を創造されたはずである。自力で世界を人間的なものに変えることができるだけ高い知性と徳性を備えた人間を創造されたはずである。
「唯一なる神に至る道程には神なき宿駅がある」(『困難な自由』)この「神なき宿駅」を歩むものの孤独と決断が信仰の主体性を基礎づける。この自立した信仰者をレヴィナスは「主体」あるいは「成人」と名づけたのである。
「秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者の位置を受難と呼ぶ。この受難が、いかなるかたちであれ、救い主として顕現することを拒み、地上的不正の責任を一身に引き受けることのできる人間の完全なる成熟をこそ要求する神を開示するのである。」(同書)

初詣、というものに子供のころから少し反発を持っていた。商売繁盛、家内安全を祈るためだ、と言われるのを聞くと、「信賞必罰、良いことをするから褒美をください、という態度で神に祈りにいくのはいかがなものか」と思っていたのだ。

いまだ少し思っているところがあるが、内田先生の同文に、人が祈りに行くことにはそれに加えて、「自身に触れてくるなにかを待つ構え」を持つためにいくのではないか、という知見を見て、なるほどそうか、と感じたのだ。

人は多分そういう姿勢を取ることで安心する。実際に触れられることは絶えてないかもしれない。だが。そうしたい、というような希求がどこかにあるのかもしれない。

触れてくる存在、の有無はわからないだろう。だが「わからない=無い」ではない、ということを最近考えている。

顕微鏡がなければ、ウイルスは発見できない。だが発見される前もウイルスは存在した。なんとなく顕微鏡で見つけるまで存在しなかったように感じるのは不思議なものだ。

同じように、いまわからないこと、が無いということではないのだ。

いまは、「わからない」。

自身の一生でわからないままであるかもしれない。

だが、そのことがいま判断できないのであれば、あるでもない、無いでもない。

そして場合によっては、「もしかしてあるのかも」という態度を取る自由がある。

だがそれを人に押し付ける必要はない。自身で、好きにすればよい。

 

まあ、そんなことを考えている。

 

レヴィナスのいう「幼児の神」。神を規定するのも、自由なのだ。

(試練は過酷ですが、それを経て得られた考え、というものがありますね。結果として)