戦争であれ、貧困であれ、疫病であれ、痛みと苦しみの経験を持つ人たちは誰でも「もう二度とこんな苦しみを味わいたくない」と思う。思って当然である。でも、そこからさらに一歩を進めて、「私だけではなく、誰にも同じ苦しみを味わって欲しくない」という願いを持つ人はそれほど多くない。だが、そのような願いをつよく持つ人がめざす未来だけが他者の心に触れる。そのような「未来像」だけが人種や宗教や言語の差を越えた現実変成力を持つことができる。
内田樹の研究室 5月2日
自分が今この瞬間の人間界で、なるたけ条件よく生き延びたい、と思うのは、本能といっていいのだろうか。
いいとは思うが、どこかで「それだけでいいのか」「もうすこし上を見た方が気分がいいかも」という遠い声もする。
しかし「衣食足りて礼節を知る」というではないか。
人生には愛と勇気とサムマネー、とチャップリンもいったではないか。
社会が、政府が、仕組みが、人生が、「サムマネー」を自動でくれなければいけないじゃないか。
そんな気持ちもこれまた自然に沸いてくる。
でもどこか「さもしい」感じもある。
そこは「ひとまかせ」ではやはりいけない気がする。
そこで必要なものは、「矜持」と呼ばれるものだろうか。
いや、むしろ「やせ我慢」といわれるものに近いかもしれない。
ユダヤ教では、自らが生まれるまえの罪にて自身が有罪である、と教えると、これも内田樹氏から教わった。
生まれる前の罪、ということで、別に輪廻を信じている、というわけではないだろう。
普通の「論理」でいけばおかしいと感じる義務感。これは禅語の「父母未生以前の自分」(ちとうろ覚えなので正確な表現ではないかもですが)と通じている気がする。
つまりこれは、やせ我慢を生む装置なのだ。
ともすると「かっこつけ」の、「理想の押しつけ者」といわれかねないような、「優等生」のような思想を持つときの、いや、持ちたい自分であるかもしれないな、ちょっと、でへ、というとときの、「将来のちょっとした矜持をもった自分」をうむための、呪文のようなものだ。
「祈り」のようなものだ。
自身の利益のみを願う祈りは、正直でいいのだが、そこにちょっと「自分」以外のものを織り込みたい。
そんな思いを、一ミリくらいもつことが、「大人」、恥ずかし気に、だまって、押し付けない、「大人」であるような、
気がしている。
(なかなかに実行できないことですが←自分調べ。。)