それは「おのれを告げはするが、おのれを示さないもの」と「告げるもの自身」は別なものでありながら同じ名で呼ばれるということである。
レヴィナスと愛の現象学 内田樹 せりか書房 P.60
議論が議論のための議論であることを人はすべからく、敏感に感じる。
議論しようという時間は無駄だ、と感じる。議論することが自説を相手に認めさせ、相手を「論破」するという目的である、と議論者たちが考えているのならばなおさらだ。
議論はどうしようもなく、なにかを変えたい、理解いただきたい、そんなときに自然発生するものだと思う。そしてその議論の裏の真摯な態度、自説を無理やり押し付けるのではない態度、つまりは自分を敬い、相手を敬う態度が必須である。
過ちは憎むが、過ちを行ったあなた自身を糾弾することはない。
そういう世界ではないのがこの日本である。
言いすぎか?
多分言い過ぎではないだろう。
罪を憎んで人を憎まず、の言が自戒の言葉としてポピュラーなのは、人はどうしても罪を犯した人を憎んでしまうからである。だが私は自分に自信がない。「その立場であれば果たして自分はそのことをせずにいられたのだろうか」
ついそう思う。
死者に鞭打つ。溺れた犬を沈める(表現が正確でなければすみません)。
そんな人間の「弱さ」を指摘する格言の、なんと多き事よ。
親ガチャ、もそうだ。これは「ガチャ負け」したものの恨み言であるのだが基本、それでも「ガチャ勝ち」したものがいるからこの言葉が生きるのだ。
親ガチャに勝った、と思うひともいるだろうが、それを口にするのは「傲慢」ということになる。
ルサンチマン。不平等。ずるい。せこい。お前だけなんだ。
そんな思いが、日々の生活の不満を苗床に、大きくはびこる。
議論がそうした苗床がある場合、真の議論になりにくい。自分は勝つために議論する、そこには自身の得しかない。
まあ、同じような人がいっしょに得してもいいけれど。
そんなスタンスは、止む無きものである。そもそも苦しんでいる人に鞭打つことはできない。なので私は議論が大嫌いだ。
だが、どうだろう。罪を憎んで人を憎まず。罪のことだけをどうするかを、各議論者のバックボーン抜きで本質的に語り合えたら。
その結果、1ミクロンでもこの世界がよくなったら。
それはすばらしいことだろう。
そんな議論を、私はやりたい。
思わず宮沢賢治のようになってしまったが、例えばマルクスとマルクス主義についてもそうだ、と内田さんはおっしゃっている。
共産主義や社会主義の厳しい歴史的事実を聞いて知っていると思う人は、改めて共産主義者となりたいと思うだろうか。いや、思わないだろう。
と反語を駆使してみたが(苦笑)、だが内田さんがおっしゃるのは、(つまりレヴィナスがいうのは)ではマルクスその人は、果たしてそうした主義を目ざしていたのかどうか、そのことを考えてみるべきだ、ということだ。
これは、なるほど、だ。
結果とスタートの思いが別であることは、考えてみればわかるのだが、結果が激烈な失敗であればあるほど、そのスタートの思いがけしからん、ということになる。
だが、それはやり方に問題があったのであって、原初の思いには「掬するべきもの」が含まれているのではないか。
いや、そうである。
その通りである。
結果とスタートの思いは関係していても同一とはいえないのだ。
そのことを今朝、考えている。
(自分をさておいた議論、というのには憧れますね)