夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

再び、魂について。

池田晶子さんについて考える時に出てくること、それはやはり”魂”についてであろう。

”魂とは”という著書(亡くなられた後に編まれたものだが)もある。池田さんの思索の、最も重要なキイワードである。

池田さんは、”魂”の語を思索の対象とされる前、”精神”、”考え”といった語でその概念を捉えられようとされたと理解している。そしてそのことが池田さんのおっしゃる”魂”という語の意味の外郭をぼんやりと映し出す。

ただし、”精神”の語よりは、より集合的であるようだ。より根源的でもあるようだ。”個人”の精神のみならず、”世界精神”といあらわされる考え方にも通じる。ユングの言う”潜在意識”や、”DNA”あるいは”生物としての種起源からの記憶”といった考え方にも通じるのかもしれない。あるいは、”生物としての存在自体の起源からの記憶”といってもいいだろうか。

池田さんが、”魂”の語に辿り着かれたひとつのきっかけであろうと推察する事象、それは”ダンディ”氏との邂逅ではないだろうか。敢えて”氏”と書いた。なんだか自然ではあった。犬身では、あられたが。

先般張り付けた書、”犬の力を知っていますか”を読む。ママ、そうなっている。自らの身を痛めた存在ではないが、いやそうであればなおさら愛おしい、私が世話せねばならない、”ソウルメイト”。後から来て、早く去る。

昨日”ナウシカ”をほぼ、通読した。1983年ころからの付き合いであるので、もう30年以上になるのか。宮崎氏がナウシカを描きだされたのは、なんと40代の初めである。あの世界観を40代でお持ちであったのか、自らを省みて、茫漠たる想いにも駆られる。

いや、そのことではなかった。そうではなく、ナウシカ、一時世界の母たる立場を敢えて引き受けた姿が、なんと池田さんに通じたのである。どうしようもない、この世を、なんとかする。ナウシカにあった気持ちが、池田さんにも確かにあった。

ナウシカは少女でありつつ、母として人の上(庇護、という視点で)に在るものとして在った。人にはなれぬキツネリスと心を通わせ、兵器として生まれた”生物”、巨神兵のママにもなる。

子らは、ママを、母を、庇護者をいつか守ろうとする。その時立場はある部分では均衡する。しかし、残るのは、”遅く来て、早く去る”ということである。それが、存在としてのスペック。

犬もそうだ。大型犬である、ということの意味、肩を組み、全身でぶつかり、老いれば全身で介護する。しないと、できない。自然、魂レベルでの、生活になる。

Dog Suitと池田さんはおっしゃった。犬身、のことである。どちらも、中身の魂は、同等であることを示す言葉である。

小型犬では実感できない、そう池田さんはおっしゃった。柴犬とコリーを飼われた実感であろう。そう、実感しにくいのだ。だが、犬でも猫でも、確かに感じる。魂の存在を。


ではでは、生きるものすべてのあるのか。魂が。



あるとしか、思えないではないか。



それはそれで、困ったことだ、おいそれと、生き物を殺せなくなる。

虫、とか。


そういう意味では、蚊には申し訳ないことをしている。あの痒さの事後反射として、皮膚にとまると殺してしまう。考えてみると、申し訳ない。

なので、直接関係のないものは、できるだけ殺さない。存在が気持ち悪い??それが彼らの責任なのか。

ちがうよなあ、どう考えても。


なるべく殺さないことにして、ある意味心は軽くなった。


異種の動物に接すること、それは彼らの魂を感じることで、”魂”に思い至ることでもあるのだろう。

いやしかし、魂全体でダンディ氏にぶつかる池田さんを感じると、池田さんの”人類へのおせっかい”の理由も体感する。


みてられやしない、しっかりしなさい。


巫女、とは、神のことばを契機とする、母、のことなのかもしれない。

魂とは何か さて死んだのは誰なのか

魂とは何か さて死んだのは誰なのか