当たり前に思っているコトバ、使っている言葉たちが、
果たしてどういう意味なのか?
ということを、なにはともあれ、まずは考える必要があるなあ、という感覚を、
池田晶子さんから学んだ方は多いのでは、と思う。
不肖私も、その一人だ。
まあ、そう思ったとしても、果たして”不肖ワタクシめが”そのコトバの本質に、肉迫できるのか??は別にして。
”そうである(ということになっている)前提”が、いわゆるドクサ、にまみれていることが、とても気持ち悪い、という感覚は、
池田さんを読んでいると、どうやら自然とついてしまうようだ。
”そうである、としてしまうことは、精神的怠惰である。”
そしてその感覚が、これもどうやら"考える”ということに繋がっているのだなあ、ということも、
次に学んでしまうのである。
たとえばたとえば、
池田さんのお好きな”ホーキンス”のお題、
”ビッグバンの前は時間が止まっていた”
・・・と来れば、
”時間”、とはなにか・・・?
・・・・・・となり、
”時間”とは発明されるもの、そのようである、と仮に前提とされるものであって、発明前の”ニンゲン”の想いとは、生活とはどのようであったか(こんなことを小林秀雄が言っていたような)、と考えてしまい、
はたまた、
金=満足との等価交換を目指すもの、
などというコトバと出会えば、
"満足”とはなにか・・・・?
となり。
視覚、(相手を)見ることと、会話、とはどう違うか、
どちらも他者、という存在との視覚や聴覚を介した接触であり、そこから何らかの"愉楽”を引き出そうとすることだなあ、
なんて風に考えたり。
そして、"では、愉しいってなんですか??”
となり。
ウィトゲンシュタインのコトバを池田さんの著書を通じて読めば、
例えば
"神秘的なのは世界が、いかにあるかではなく、世界があるということなのである”
(論理哲学論考 六・五・三、池田晶子 考える人 P.249)
というつぶやきのような言葉を教えていただけば、
世界の、存在の本質にどこか繋がっている人に共通の感覚を感じ、そして"真実”は誰が言った、とは関係なく真実なのだ、という当たり前を当たり前に再認識したり、
・・・するのである。
そして絶叫のような、もどかしさをもどかしさそのものとして示したような西田幾太郎のことば、
”絶対精神が絶対的に存在するとは、絶対無を契機にして絶対我が口走る刹那滅的冗談である”
(池田晶子 考える人 P.339 より)
・・・を読めば、
ソウトシカイエナイヨナア、
・・・となり。
(カタカナをつかうと、なにか少し宮沢賢治みたいだなあ?)
猫と遊べば、
コイツはもしその魂が、口をきけるニンゲンの体にはいったなら、
間違いなくなにかしゃべるよな、
考えていること、完全にわかるな。
・・・と思ったり。
これが"精神取替え物語”の霊感源的感覚だな・・・・
・・・と思ったり。
いやはや、いろいろ考えてしまうのである。
いやあ、なんだか愉しいなあ。
池田さん、ありがとうございます。。。
池田さんは"精神的大盤振る舞い的プレゼント”を
季節に関係なく配りまくる
気前よすぎの女サンタクロースみたいだなあ、
とわけのわからないことを考えてみたり。
・・・モウスグ、クリスマス、ダシネ。
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