夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

池田晶子賛江。

けさ、ふと気が付いた。
池田さんがもしご存命であれば今は51歳。そうか、向田邦子の享年と同じか。それがどうというわけではなく、向田さんと池田さんに特段共通点があるわけではないが。
あえていうなら、言葉の絶対的な価値を両者とも知っていらした、ということであろうか。

池田さんの命日が近づいている。冬が本番であるこの時期、池田さんのたぶん最後に書かれた文章は、温泉の暖かさを渇仰するものであったなあ、と、その文章はたしかネットでは”池田さんらしくない”などと(その状態を知らない=当たり前だが)と言う批判(!)もあり、個人的には”なにをいうとるんや!”と憤っていたりしたことも思い出す。

もうかれこれ5年になるのですね。


だれにともなく呟きたくなる。誰に?池田さんは”この世には”いらっしゃらない。しかし”いない”とはなにか。例えばその文章に接することで、僕らはありありと池田さんの口調に接するではないのか。面倒見が良くて、本質へ一直線で。直裁で。

”いるみたいだなあ”

なんだか泣き笑いせざるを得ない心境になる。これを世間では”おセンチ”(たぶん死語)とでもいったものであろうか。

そんなキブンになったのには理由がある。あるきっかけで池田さんが20世紀末に(たぶん初の)週刊誌連載をされた”考える日々”3部作を、今週一気に(正確にはいま3の終盤だが)再読したことにある。

古い、という語がこれほどあてはまらない時事批評があるだろうか。3000歳の精神年齢を誇る池田さんにとって、この世間の一瞬一瞬を切り取って語ることは、それは2000年以上まえのソクラテスの精神と日常を語るときと寸分の違いなく。

現実の宇宙ではなく、この脳髄にはないどこにもなくてどこにでもある”精神”の宇宙を毎晩旅していた池田さんである。ああ、そのとき池田さんの”身体年齢”は40歳だったのだなあ(例えば)、と思うだけで。例えば(嬉しいことに)池田さんの講演会やサイン会に僕が行ったとすると、そのときにそう思うであろうが、いまここにいて、おなくなりになって”5年”の月日が過ぎても不易の、この魂の手触りは一体どうなっているのか。

2日ほど研修で東京にいた。行きの新幹線から雲ひとつ無い富士山を見た。例えばその魂の姿は富士山を仰ぎ見る気持ちにも似ている。別に日本的とかいうのではない。どこから見ても富士=どこから見ても池田晶子。ぶれない、ということばがあほらしいくらいに変わらない姿。

普段このブログは、だいたい下書きとかなくそのばでの思いつきや思いを書くことにしているのだが、車中で池田さんのことがなんだか書きたくなって書いたものを以下転載してみることにする。

考える日々Ⅲ P.145

「インターネットの本質」とは、そういうことだと私は理解している。つまり「本質」とは何か、本質を峻別する力こそが各人に試される、それがこの「革命」の意味なのだ。(中略)
革命とは試練である。浮かれているだけの人はやがて沈む。本質を峻別する力とは、他でもない、その人の生の意味である。各人が自身の生を革命する絶好の(最後の?)試練と思えばいい。

以上引用終わり。

池田さんは別にインターネットが悪い、と仰っていたのではなかったのだ。インターネットだろうが、紙だろうが、パピルスだろうが(いっしょか)、電子本だろうが、とにかくそれは単なる手段。
・・であることを忘れて手段が目的になっている、と仰っているだけなのである。快楽や娯楽は文字踊り快楽や娯楽であるからしてそれが悪い、ということではない。単なる娯楽である。快楽である。それだけだ。だがそれが人生の目的となったとき、人はその人生を生きたと言えるのであろうか。快楽が人生を生きた、ということにはならないか。
これも文字通りの意味で、別に他人に示される”外部規範”の意味ではなく、自らの魂が”そう思う”やり方で”善く生きる”。これが「生きる」には必要な唯一である、と仰っているのである。

インターネットは”便利”で”タダ”な麻薬が入っているから特にヤッカイだよ、玉石混交ならぬ、石石石石玉混交,位だから本質を探すのは余計に面倒だよ、と釘をさされているのである。

”下劣”で”下等”がたくさんそこにはありますよ、と、こう仰っているのである。

言葉が価値である、ということにも拘っていらっしゃる。島田雅彦氏が”言葉は等価交換できる”と四谷ラウンド発行の中学生への副読本に書いたことに対し、”断固として猛然と”噛み付いていらっしゃる。

このあたり、文章の書き手としての島田氏への信頼があったのだとも思うが、ちょっと”ヒヤヒヤするなあ、もう”である。ちょっと恐いかもしれない。”キチンと考えないと池田さんにしかられてしまうなあ”と思うところである。

食べるために書くくらいならば、一瞬で筆を折って”野垂れ死に上等”。「おまえらとは覚悟が違う」。

文化勲章を受けてこそこそ陰口を言われてたたきつけた小林秀雄のこの言葉を引用されて、池田さんは自身の矜持を示す。善く生きる、とはキチンと生きることだ。言うべきときに逡巡せず、言う。小林に痺れた池田さんにまたシビレル。

情報の海に知らずまみれておぼれていることにさえ気がつかない我々の一生はなんとも気の毒。言ってもわからないし、別に言う義理ないんだけど、あんまり気の毒だし、生来のお人よしだから言っておきます。そういってやっぱり傷ついて。そういう方であった。

ガン漂流の作者との関係。いまこの時点にたてば、池田さんの思いは手に取るようにわかる。言い訳は一切しない。ガンを世間に示すことより、それを契機に自ら内省しなさい。決して自らも同じくガンと闘う身であるということをおくびにもださず、それを出せば相手も世間も納得するのは十分に承知されながら、”それは本質ではない”。魂が内省する機会を持つ、という真実を伝えるのに、伝える私がどうこう、と言い訳したらおしまい。その峻厳にして清廉な魂のありかたを、こうして亡くなられて5年もしてわかるこの僕の愚鈍。

これがいわば不易たる(精神の)富士を仰ぎ見るがごとき心境であろうか。あまりにも高い。あまりにも美しい。

そんな池田さんのこと、”池田魂”を感じていると、いきおい古代の人が”死んだら人は星になる”と信じていたことを違う視点で見ている自分に気が付く。前はこう思っていた。”死んだら魂が星になるわけないやん。古代人はやっぱりアホやなあ”。

アホなのは僕だった。

彼らがその考えに示した純粋な思い。宇宙とはあの宇宙ではなく、この宇宙であったのだ。そこはいわば無限の魂の宇宙。そこにあるのだよ、宇宙大の精神のこの世への”生”という形に切り分けられて体験しているこの”僕の生”は。

池田晶子さんというのは、冗談ではなく同世代にあった偉大なる魂である。その本質は”四聖”と呼ばれる人類の偉大なる4つの魂との違いはない。一部であり、同質であり、よりわかりやすい。自らを”巫女”とおっしゃったのは、真実をしか、この口から吐きません、巫女たる我の言葉はしかし真実に正しく接続している我であるからして出すことが”できるのじゃ”。

強烈なる自負と孤独、”あらやだわたし天才だったわ”。というときの”天才”はうらやましい、という世間のドクサを綺麗に取り去った、”事実としての天才”をさしていることに留意。
これは天才にしかかけない境地である。

そういう意味での”精神的宇宙”には、輝く星(=精神)がきらめいている。四聖は勿論だが、最近では”新しくも歳経りた魂”埴谷雄高。”青白き孤高の恒星”小林秀雄。そして”麗しき巫女”池田晶子

夜な夜なの星月夜。偉大な魂のなんと偉大なことか。