(宇宙においては)何ものも消滅することなく、何ものもあらたに生ずることなく、何ものも終末あることなく、何ものも常恒であることなく、何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものもそれ自身において分かれた別のものであることはなく、何ものも(われらに向かって)来ることもなく、(われらから)去ることもない、という縁起のことわりを、仏は説きたもうた。
龍樹 「中論」 冒頭「帰敬序」
境界がなく、広がることもなく、縮むこともないこの世界、そこにあるいは精神界も含めれば、とりあえずは“この世”ということを想定できるだろう。
なんとなくそういう広がりは、わかりそうでわからない。こうして仏の説きたもうたこととして龍樹に教えてもらわないと、なんというかピンとこないのはなぜだろうか。
一つは、そういう限界のない“全“というか、“一”というか、は実際に自分個人としてはうまく体感できそうもない、ということがあるのかもしれない。
まあ、見ることはできない。宇宙でさえ(!)、果てとその向こうをうまく考えることが出来ない。果て、とはもうその向こうがないことを言うとしても、ではその果ての向こうはなんですか、ということがどうにもこうにも考えられないのだ。
文字、というものの限界だろうか。もちろん“全“にはこの精神、あの精神、魂というものがあるとするならこの魂をも含む、ということになるので、魂ならあるいは、宇宙の果ての向こうを見てくることはできるかもしれないが、見ることができるのであれば、そこは“果てではない”ということになるだけなのだ。
ここで堂々巡りだ。このさきをうまく考えられないのだ。
だから、見る、や感じる、とは違う仕方で把握しなければならない。
それは多分、「考える」だろう。
何度も同じことばかり言っているのだが、池田晶子さんが「悩むな!考えろ!」と喝を下さった、あのことだ。
考える、は無敵だ、ともおっしゃっていた気がする。
水平に無限に広がり、垂直に無限に屹立する。
そこからはあるいは、この世や全を超えたものへと、向かうことができるのかもしれない。
(ちと無理ですかねー笑)