”表現するとは、己を圧し潰して中身を出す事だ、己の脳漿を搾る事だ・・・・・・・・”
小林秀雄は、「表現について」でこう述べる。
すさまじい覚悟だ、とヒトゴトのようにいっていいのか。自分は、どうだ。どうなのだ。
”例えば、私は何かを欲する、欲する様な気がしているのではたまらぬ。欲する事が必然的に行為を生む様に、そういう風に欲する。つまり自分自身を信じているから欲するように欲する。自分自身が先ず信じられるから、私は考え始める。そういう自覚を、いつも燃やしていかなければならぬ必要を私は感じている。放って置けば火は消えるからだ。信仰は、私を救うか。私はこの自覚を不断に救い出すという事に努力しているだけである。”
小林秀雄は、「信仰について」では、こう述べている。47歳から48歳にかけてのことだ。
巨大な精神に年齢はあるのだろうか。魂には年齢はない、あるいは”太古の”年齢がある、というとおかしいだろうか。
輪廻、を直裁に述べたいのではないが、なにかそう感じるものは、ある。
池田晶子さんの魂を見よ、記憶にない幼稚園の試験、”なんかバカみたい”と述べて動かぬ魂が、歳経りていないことがあろうか。
だからといって、”過去の経験がある”といいたいのではない、再度そう押念したくなるが、しかし。
自分を信じて、自分に欲させる。意識して、”自分”に薪をくべる。”欲することが必然的に行為を生むように”。
行為はともすると消費に流れる。金銭ではない、時間のだ。我々の唯一の、そして大切な、資産である時間を、だ。
意識しなければならない、圧し潰し、脳漿から”なにか”を搾りださねばならない。でないと、”我々はなんのために生まれたのか”。
いや、特に意味はないのだ、だから、というか、でも、くやしいではないか。なにかを。”残さねば”。この世界に。
そんなあがきが、いらないのだが、たぶんあったほうが、いい。
”ゆっくりと急げ”、池田さんもこの言葉に言及されたが、僕としては、そのような含みが、あるように思う。
いや、そんなに構えずとも、”何かを求め、結果を得る”、これはなんとも愉しいのだ。求める、とはなにか。欲するとはなにか。
例えば”食”。食べるために、食べるので、基本はいいのであろうが、食には文化がある。プロダクトとしての、料理としての、そしてそれを例えばこの地に持ってくる思いも。
一義的には”金”なのかもしれないが、そこから出でて花咲くもの。
いわゆる”グルメ”には縁が遠かった、というか”燃料として食べる”ことが基本の私ではあるが、そうした”文化”が少し気になっている。そしてそれをどのように味わうか、にも。
そういう意味では、”人生は美味しい”というところかもしれない。
例えば”はも”。いや、僕が食べたわけではない。この季節にぴったりのものとして食した知り合いがあるわけだ。
うなぎに通じる、強壮のための、真夏の、魚。京都、でよく食べる。祇園祭りのころ、食べる。
そうした、背景も、はもとともに食べるわけだ。
いわば、文化を、食べる。
いや、奥が深い。
食べ物のことでは、とりあえずなかった。表現のことだった。
押し潰す脳漿は、われのこの、ポンコツしかないわけであるが、それを愛で、このどうしようもない己を”信じ”、ゆくしか、ないのである。
・・・言い訳を、している場合では、ない。