夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ピルグリム。

本居宣長の奥墓(おくつき)へ行った。

本居宣長は松阪のひとである。松阪は地元では”まつさか”と清音で読み、言葉で発するときには”まっさか”と僕には聞こえる。

タクシーでその場所を告げたとき、運転手さんは一瞬驚いたようだった。ご存知ないですか?地元の運転手に失礼な言葉だったかもしれない。

いや、わかりますが、ほとんど行く人がいないので。11年運転手をやっていますが、そこに行くお客さんは初めてです。

細い1本道を上がれるところまで車であがり、そこからは山道を登る。結構距離がある。寺に行き着いたらそこから又登る。山腹の中の頂、といいたいようなところに、墓はあった。

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小林秀雄は”本居宣長”を昭和40年から昭和51年12月にかけて書いている。秀雄63歳から74歳までに当たる。晩年に最も力を注いだ著作であろう。批評家としての遺言である、といえるかもしれない。

写真の多い”新潮日本文学アルバム・小林秀雄”の59ページには、樹敬寺の墓に加え、山室山上の奥墓に詣でる秀雄の姿を見ることができる。昭和54年4月、秀雄77歳の頃だ。「本居宣長」の完結と刊行を報告した、とある。

小林秀雄 (新潮日本文学アルバム)

小林秀雄 (新潮日本文学アルバム)

同じく85ページには、本居宣長の遺言書と、その中に書かれた山室山「奥津紀」の図を見ることができる。自ら菩提寺の墓のほかに山深い地の山頂近くに自らの墓を定めその図を描いた。その墓の文字は宣長自身の書であるとのことである。

実際の宣長は、菩提寺ではなくこの奥墓の方に眠るという。そして墓の後ろには1本の山桜が描かれる。山桜に抱かれ眠る墓の図を、自ら遺言状のなかにしたため、桜を愛する宣長は深く安心したのであろう。

小林が墓を詣でたのは4月、同じく桜を敬愛する秀雄は、奥墓に咲く山桜を見ることができたのであろうか。


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待桜忌、という言葉を、僕は勝手に作っている。もとより誰かに確認したわけでも、認可を貰ったわけではない。極私的に作り、独りだけで偲ぶ日のことである。平成17年2月23日、午後9時30分に亡くなった池田晶子さんを偲ぶ日のことである。

桜を愛し、全国を巡った小林と比べ、池田さんがことさら桜を愛した、というわけではないかもしれない。だが病床で最後の力を振り絞り、暖かい温泉のことを、病のことはおくびにもださず、それ故深い憧れを以って書かれた池田さん。鈍重な我が身はそのこともわからず”ああ、冷え性の池田さんは温泉がすきなんだな”と気楽な感想を持ったものだ。その後、3月初めになって新聞で池田さんの死を知って受けた衝撃と喪失感。

そして何度かの2月と桜の時期を経た。僕は寒い2月に温泉を想った池田さんの魂はまた、桜の時期を待つではなく、深いところでは激しくその咲く時期のことを想われていたのでは、と感じるようになった。桜の咲く頃を思いこの死の床にある。だが待て、”死に行くのは誰なのか。”

何度も引用する文であるが、又、引用する。偲ぶ、とは故人を想う同じところに、帰ってくる行為だと思っている。

”目に柔らかに木々の若芽が揺れている、光、射す、ああ季節がまた巡ったのだ、鋭く想う毎年のその刹那、去年までのそれは記憶の襲来だった、今年私は明らかに死の方、を見た。”
  p.62 口伝西洋哲学史 考える人 中公文庫

君自身に還れ 知と信を巡る対話

君自身に還れ 知と信を巡る対話

特に桜のことを書かれた文章でさえない。しかしここで若芽から鋭く死を想った若き池田さんの思い、それは2月の敢えていうこの世での(肉体の)生の終わりの想いに深いところで地続きの、憧れ的詠嘆がある。そう、感じた。桜の咲く頃を待つ。待つではなく、でも。

桜を愛する本居宣長を敬愛し大著に著した小林秀雄。秀雄の魂とその在り方を敬愛した池田晶子。繋がっていないようで、深いところで繋がっているような魂たちが僕を宣長の奥墓に導いてくれたような気がしている。

ピルグリム。魂を詣でる旅。

もうすぐ、又その日が巡ってくる。