新幹線に乗車中。
車中の友は引き続き小林秀雄”考えるヒント”にした。
桜の項。小林は本居宣長を書いた、ということはとりもなおさず桜について書いた、ということになるのだろう。
P.220,講演会にかこつけて弘前の桜を見る。講演会を行う言い訳を桜に託す。講演も年齢順。次第に他の講演者を待つ間は酒を飲みながら、とこうなる。
P.221、”弘前城の花は、見事な満開であった。背景には、岩木山が頂の雪を雲に隠して、雄大な山裾を見せ、落花の下で、人々は飲み食い、狂しいように踊っていた。”
なぜに桜に人は狂うのか。義務感のようですらある。DNA、であろうか、しらぬまにこの体に、深層意識に、埋め込まれた記憶なのだろうか。受け継いだDNAの、先祖の、先人の。
引き続き、小林は、桜に淫する。
”外に出ると、ただ、呆れるばかりの夜桜である。千朶万朶枝を圧して低し、というような月並みな文句が、忽ち息を吹返して来るのが面白い。花見酒というので、或る料亭の座敷に通ると、障子はすっかり取払われ、花の雲が、北国の夜気に乗って、来襲する。「狐に化かされているようだ」と傍の円地文子さんが呟く。”
梅雨のさなか、新幹線という粋でもない乗り物に乗っていてさえ、こうして書き写してみると周りに桜が溢れる思いがする。桜は、匂いがない。徹底的に視覚の花だ。
甘い匂いなどしようものなら、日本人の花見、というものはこのようではなかったのではあるまいか。
年に数日。その時期を逃すと”淫せない”。散ってしまうと、なんだか今年は失敗したような気がする。クローンなどと評判の悪い、小林もけなすソメイヨシノだが、僕に取っての桜とはソメイヨシノしかない。桜の語を、ソメイヨシノを見て知ったのであるから。
山桜は美しいのだが、それはやはり個人的には”遅れてきた本物”。けなげに咲くソメイヨシノがクローンであるのは、花の罪ではあるまい。それはあるいは、”見る私の、罪であるかもしれない”。
P.222、桜を見ることの怖さを、桜の怖さを小林はこのように評する。
”この年頃になると、花を見て、花に見られている感が深い、確か、そんな意味の歌であったと思うが、思い出せない。花やかへりて我を見るらん、ー何処で、何で読んだのか思い出せない。”
池田晶子さんもまた、桜を見ることで来し方を振り返らされることを書かれていた。
桜を見る、ということは、煎じ詰めればつまりそういうことなのかもしれない。
- 作者: 小林秀雄
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2004/08/01
- メディア: 文庫
- 購入: 20人 クリック: 175回
- この商品を含むブログ (119件) を見る