表現するとは、己れを圧し潰して中身を出す事だ、己れの脳漿を搾る事だ・・・・・・
小林秀雄 「表現について」より
世間ではちょっとした小林秀雄ブーム?のようだ。亡くなってから30年という節目であることもあろうが、一つのきっかけはいわゆる「センター試験」で小林秀雄の「鐔」が出題されたこともあるだろう。曰く、受験生は軒並み苦戦で平均点は史上最低であるとか。
「鐔」は1962年6月、小林が60歳の時の文である。有名な「還暦」の前に書かれたものである。「還暦」のなかで小林は、「年齢とは、これに進んで応和しようとしなければ、納得のいかぬ実在である」と述べている。
これは自らの精神の”年齢”と、肉体の”実際年齢”の実感としての乖離感を表現して秀逸な文章であるが、これと呼応して池田晶子さんは翻って”私は精神である、と考えるのではなく、私は肉体である、と考えるのはどうか”、と提案された。同じ事を同じように述べておられるわけであるが、いずれにしても、ひとは皆、みずからの精神と肉体が違ったものである、ということを日々感じるものである事を改めて認識させられる。
そして冒頭の引用、これは小林48歳の頃の文章であるが、小林がいかにして日々呻吟し文章を捻り出していたのかがわかる。まさに”おまえらとは覚悟が違う!”である。そのときの自らの全経験を、全実感を、まさに全身全霊で書ききることが、表現することだ、と言っているのである。
なんともすさまじい、といってはいけないのだろう。自らのふだんの自覚を試されているのだろう。嘗て池田さんは”あらゆる文章が絶筆です”と書かれた。絶筆とは、もうあとには何も書かないことだ。いや、”書けない”ことなのだ。
改めて思う。なんとも真剣にこの瞬間を生きているのか、と。後でまとめよう、いつでも書ける。僕が文章を書くときの覚悟はその程度ではないのか。人が持っている財産は時間だという。だが死期を悟った時、ああ、もう来年はこの桜がみられないのか、そう思ったとき、文章はすべからく絶筆となる。
表現する、ということのプロとアマの違いであろう。プロとは文章が売れることを言うのではない。当たり前であるが、文章に対する覚悟が、違うことをいうのだ。
これは文章に限るまい。なにかを表現するとき、心に言い訳があるかどうか。
僕がなにかをするときには、必ずどこかに言い訳があった気がする。考えて見れば学校選びや、就職の時もそうだった。それはとても残念なことだ。
今は過ぎ去るものではなく、永遠でありそれが唯一確実な”私のもの”である。であればそれを本当に味わい、愉しみつくさねば勿体無いではないか。
わすれる、直ぐに楽に逃げる、残念な私の魂ではあるが、これしかない私のパートナー?、肝に銘じて、”仲良く”やってゆきたい、と思っている。
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