夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

色づく、言葉。

木の葉が紅葉するのと同じように、
言葉もまた、色づく、ということを小林秀雄は言った。


例えば、道徳ということばは、どうだ、と。



なんと美しい考えであろうか。


ドクサ、臆見ということばもある。言葉に染み付いた本来その言葉の本質にそぐわない意味、ということだと理解している。

色づく、とはまさに正反対の考え方だ。

本質に合っており、よりそれを深め味わい深くする。


言葉と、そして道徳ということばと、小林の魂、が深く繋がっていたことを示すものだろう。


道徳、ということばは、僕にとって僕自身を脅かし、浸食しようとする行為、として出逢った。そう、学校における”道徳の時間”である。

道徳、とは、”お前のやり方、考え方は間違っている、本当はこうすべきなのだ”と、口うるさく、しかもまわりくどく、言ってくるもののことだ、と小学生の僕は思ったものだ。

そのときの反感はなんと今でもまじまじと思い出すことができる。

道徳の教科書は、たしか紫色と白が混じった、妙に渋い、和菓子の包み紙のようなデザインの表紙だったように思う。なんともうさんくさく、”いやあ、どうせこういうことが言いたいんだろう”と思いながら、先まで独りで読んで、勝手に心の中で憤っていた。

多分小学校低学年だったとおもうが、そういう面ではすこし”ませていた”のかもしれない。あまり外に出て友達と遊ぶ、ということが少なかった所為かもしれない。

なにか底が浅く感じられたのだ。ちょっと舐められている、という感じか。曰く、お手伝いしましょう。ケンカはいけませんね。XX君のやったことは正しいでしょうか。

いや、教科書さんの言いたいことはわかる。まあでも、そんな物語仕立てでじんわり攻めよう、などとはしないでくれ。

そんな風に思っていたものだ。

イキオイ、”道徳”という言葉には、以降注意することとなった。残念ながら嫌いな言葉となったのだ。

小林がいう、”色づく”の後ろにある愛惜の思い、これはなかった。

その後今に至る何十年間、”道徳”とは警戒を要する、ややこしい言葉として私の前にあり続けた。出会ったら、逃げたり、避けたりしてきた。


・・・ここに人の心にずかずか”いいこと”を押し付けようとする行為の先駆けがある。

そう思っていたのである。


そんな僕が、小林秀雄に出会い、そして冒頭の考え方に出逢った。
そして思った。あれ?


・・・それはもしかすると、すごく残念なことだったかもしれない。


本来、道徳、の語が持つ美しさ、というものを、それこそ臆見から、僻目から、偏見から、故意に見ないでいたのではないか、と。


心は、自由だ。
小学生の僕はそう思っていた。知識を知識として教えられるときの強制はいい。国語の教科書で物語を読んで、”自発的に”なにかを感じることもいい。

だけど心を型にはめようとしないでくれ。

それは今もそう思っている。好きに考えさせてくれ。

ただ、一方でこうも思ったのだ。多分今は学校でこうした道徳教育をあまりやらないのではないだろうか。

やっているところはあるだろう。ただ、趨勢として。物分りのよさとして。これはなんとなくそう思っているだけだが。

反発を通して考えさせようとしていた。その可能性を小林の一言で考えたのだ。

わざとか!?

その可能性はあまり高くないようにも思うが、反発心の強いコドモゴコロに楔を打つ。それは何十年も経った今、改めて道徳、と言うものの本質を考えるための布石として打たれた。

小林のいう道徳。それは本来の意味、即ち”道”が持つところの”徳”だ。そこに実は強制は微塵もないのではないか。道があり、徳がある。ただそれだけ。

そしてそれが善きものでないわけがあろうか。

小林の一言で、僕はその可能性を考えた。そして新たに”道徳”という言葉に、改めて、新たな気持ちで、向き合うことが出来たのである。

そして、もうひとつ、過去の道徳の時間の意味を、このように、”勝手に”、解釈することが出来る心の自由というものの確認をもまた、させて貰った。


改めて、言葉というものがの持つ力、可能性、というものを、考えさせられる。

そこがまた、小林秀雄というひとの魂の強さ、なのかもしれない。