人生にとって、目的とは。
池田晶子さん流にいうのであれば、そも”人生”とは、そも”目的”とは、となるわけであるが。。
”目的”は、たぶん本質的にはあっても無くても”此の世”にとっては関係のないものだ。
知ったこっちゃない。
そもそも相手に、ならない。
そもそも、求められて、いない。
求める、ということすら存在しない。
そうあって欲しい、”生きているのに意味があってほしい”。
ニンゲン、そう思って生きている。
だが、実は奥深いところで、みんな感じている。
奇跡として我はここにいる。ただ、意味はない。
ただ、あるだけ。
・・・それが存在であり、”人生”といわれるものだ。
そのことの厳然たる事実に震えて対峙し、納得して、
そしてそれでも、”ただ生きていればいい、”となったあとに出てくるもの、
それが”目的”というものなのだろう。
ここで出てくるのが、いつものあれ、そう、”魂”と”善く生きる”。
魂、といえば、僕の中でやはり出てくるのは売春は誰にメイワクかけているのか、誰に悪いのか、という問いに対する池田さんの一喝、
だれにも悪くないがオノレの魂に悪いわい!!!
・・・いや、池田さんはこんなにガラ悪くは無いが、まあ、そういうイキオイで一喝されている、というのが私の印象であリ・・・、申し訳ありません、池田さん。
で、それを読んで、ニブイ僕などはおもったのだ。
そうか、そうだったのか!やっとわかった!!
自殺は後生に悪い
というのもあった。後生?いやしかし、池田さんは一見宗教めいたことを述べられているようだが、ちがうのだ。
輪廻、を説いているようで、今、を説いている。
説いた上での”後生”なのだ。
ここ、すごくわかりにくい、というか、僕独自の解釈、なのかもしれない。
宗教めかずに、宗教の目指す本質の最も近いところに佇む。
それが”哲学の巫女”の居り場所だ。いつも、そこに、いらっしゃる。
で、目的。
善く生きる。実は目的は全てこれ。
しかし、ここで個人のバリエーションが認められる。
あなたにとっての”善い”はなんですか。
そう聞いてもらえる(誰に?)
聞くものはなんだろう?
良心?それこそ魂?
僕の場合は”池田さん”かもしれない。
”池田某”かもしれない。
善く、生きているか。
人生の、羅針盤のような、言葉、かもしれない。
おてんと様は見ているぞ、
ご先祖様はみているぞ
オノレの胸に手をあてて考えろ
まあ、そいうった格言?が伝えようとしている本質と、
これはほとんど、同じものかもしれない。
善く、生きているか。
・・・結構、すぐ、見失ってしまうんですよね。。。。
で、こうしてブログなぞに書き付けて、
忘れないように、するのである。