誰が何をやっているのか
ということについて、なぜ(普通の)人はかくまで無自覚でいられるのか
リマーク P.27 池田晶子 DEC.1997 01 より
中学3年で発症し、高校1年で亡くなった男子生徒の母であるひとの
講演内容を間接的に聞いた。
病室の弟に、姉は池田さんの”13歳の哲学”を贈ったという。
彼は熟読し、公職にある母親に、病室に来ず公務を行って貰いたいと
語ったという。
死後、本は、棺に入れられ共に焼かれたとのことである。
彼にとって池田さんの言葉はどのように伝わっただろうか。
むろん彼は池田さんが亡くなってからこの本に出合っている。
池田さんが同じく癌で亡くなった(身体としては)ということもまた
あるいは彼を慰撫したかもしれない。
だが、死の床で池田さんの言葉の真実に触れること、魂が魂に触れること
これは彼に日々をすごす力を与えたのではないかと思う。
病床にある弟に、池田さんの本を贈られた姉の魂、これもまた
なんというか素晴らしい。
子を亡くされた親御さんにとっては耐えられないことであるが、そのひとが
息子は池田晶子さんの本を病床で熟読し、その支えとした
ということをこうして伝えてくださったこと。
池田さんは続ける
”自分は宇宙を飛んでいる
と思っているのだ、驚くべき、愚昧さ
宇宙飛行士は宇宙を飛んでいるのではなく、自分を飛んでいるのである
彼は自分を飛んでいるのである
要するに、何事も生じていないのである
今さら何に驚くつもりなのか”
あの宇宙ではない、この宇宙を宇宙大の目で、
見ている 誰/私//池田さん//池田某 。
同じく リマーク P.40 JAN.1998 25日の項から。
”死が無い
ということにおいてこそ
全てが在る
というのにさ”
27日の項。
”死が無いと知っているということは
どちらかと言えば
幸福なのだろう
死への恐怖というのは、ひょっとしたら、ものすごい恐怖なのではあるまいか”