全p.361 禅における言語的意味の問題 井筒俊彦 岩波文庫
一たん文節されて結晶体となった存在は、もしそのものとして固定的、静止的に見られるならば、文節される以前の本源的存在性を露呈するどころか、逆にそれを自己の結晶した形のかげに隠蔽するものである。このような場所では、人は存在を見ずに、ただ存在の夢を見る。
同、P.362
禅は、言葉により、無限の存在が分節化される(これはケン・ウィルバーの言う”境界”と同じ意味であろう)ことを嫌う。
徹底的に言葉を無力化し、無意味に使うことにより、言葉の文節化力を話者に、対話者に、世界に、意識させる。気づきを促すのである。
そのなかで、たとえば”花”、という言葉によって、文節化結晶体としてしか見えていないこの私の目、および意識、見方、というものを、その破壊力のある無規則性(仏と会えば仏を殺せ的な、驚きで気づきを誘発するような)で崩そうとする。
それが公案、という仕組みの意図であるようだ。
そこには、禅の根源的な世界観がある。すべては無であり、全であり、一であり、永遠であるものの一表現。
全で一であるからして、それも、それを見る私(誰か?)も、混然一体、差は解けて流れて、たゆたう。
そして、その境地にあることのなんともよい心地。
それは、そうなのだなあ、というこころもち。
禅者は、そんなところにいるのだろう。
従って、禅者は、言葉になによりも自覚的である。危険なものとして取り扱う。
たとえば”名前”というもの。人の名前、ものの名前。
これは、”言葉”により、直接的にある文節的存在を文節化固定することであり行為である。
これはうろ覚えであるが、ル・グインの”ゲド戦記”にて、そのものの”真名”がしられると、そのものは知られたものの僕となる、という箇所があったやに記憶する。
魔法、とは深い理解の別名でもあるだろうから、魔術的真実は、言葉により簡単に管理され、限定され、奪われる。
ル・グインはそのことを言ったのではないだろうか(宮崎吾郎氏のアニメ化時、商業的にはしんどいかもしれないが、このあたりを深堀りしてもらうとよりあのアニメは味わいを深くしていたような気がする。尺の問題あってむつかしいのだろうが)。
始めに言葉あり、
とした聖書、これはそのことを寿いだわけではないのかもしれない。
アダムが食べた禁断の林檎、これは食べると大変だから、もう戻れない地獄(文節化・
境界化)へのころがり落ちだから、だから”やめとけ”だったのかもしれない。
それは、言葉の獲得が、発展への手段的地獄、一見よく見えるが、根源的平安からの墜落を約束するものであるから。
敢えて人類は、アダムは、その禁断の果実を食した。言葉の持つその堕落の力を、象徴的に伝えようとしたのが、実はあの説話なのかもしれない。
であれば、言葉の文節力(=魔的堕落力)に意識的で戦闘的でさえある禅者たちは、アダムを楽園に戻そうとする、異国の天使、のようなものかもしれない。
あ、そうか、だから西洋から禅を志望する人がくるのか。
思うのだが、基本的に宗教的は同調圧力がそれほど高くない、この日本の精神空間、これは実は世界でも貴重なのではないだろうか。
この東洋の島国では、精神が防衛的に卑屈力と面従背反力を自然に兼ね備え、強化されてきた(鎖国とか、海とかで)ことで、”精神のガラパゴス”と化しているが、これはむしろ”楽園での気持ち”に近いかもしれない。
真実に、あたかも盲目で興味なさそうな雰囲気でぼーっと生活して居るものの、例えば禅、のような起爆装置を基本しこまれており、アダム前の楽園への到達可能性と到達力は実は高い。
低く、志なく見えるが、そこがあざとい祖先からの装置として。
なんだかそんな気がしてくる。
仏教、では、死せば”仏”となる。
仏は、たぶん、全に属するものだ。わかりやすく。
人には、仏性があり、発心すれば菩薩となり、時をへて解脱し仏化する。
まったく仏教を学びもしていない、僕の日本での理解はこれだ。
そして、世界には、時間というものはない。今だ。あるのは。
そうすると、仏は、これだ、あれだ、みんなだ、このシャーペンの芯だ。
そうなるなあ。
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小林秀雄は、「当麻」で”美しい花がある。花の美しさというものはない” と書いた。
これは、ぱっと見だと、花は花としてある。美しさ、というあなたの概念をもってきてしまうのが、文節化、境界化の仕組みにとりこまれているあなたの、わたしの、癖(へき)なんですよ、花の、言葉ではない、真の姿(=全)を見るべきですよ、という小林の理解が、あふれでた、という理解ももしかしたらできるのかもしれない。
全ての言葉に、意識的であれ。
これは、武器を所有していながら、その危険性を把握せずに利用してはいけないよ、という感じに似ている。
しかし、ことばは無危険性で擬態している。ソクラテスの洞窟の説話、ここで示されるような危険。敢えて死を選ぶことで、世界が全の一部であるとの自身の理解を示したソクラテスに直接関与したような、それは危険性だ。
気をつけろ、ということだろう。
マトリックス、で伝えられた世界の二重性、これは、AIで人が操られていることになっていたとの(自分の勝手な)理解ですが、AI以前に、ヒトは、エデンですでに、蛇によって毒林檎をおいしく食べさせてもらっており、神(=全)より、”あーあ、やっちまったかあ”と人格的ではなく、事実として、象徴的に、この下界に、追放された。
このあたりが、実はグノーシスの思想(=この世はまがい物の神(=デミウルゴス)が作った世界で、我々の魂は別のところから堕落して落ちたが、実は全(=神)の一部である)というものの成り立ちであるような気がする。
この思想が、なぜに正統派キリスト教から異端とされたのか、果たしてただ組織化面で脅威だから、ということだけなのか(今はそう理解してはいるが)、少し疑問に思っている。
どう考えてもそうなるはずなのに?
世俗的、あるいは政治的・戦略的に(=その考え方では、人類は厭世的になり、中長期的には、子孫を産まず(=この世は仮の悪の世界なのだから)それはまずい、ということだけで異端としたのか?
なにか別の理由があるのか??
なんだかすこし、ひっかかっている。
ああ、今日はなんだか思いつくままに書き散らかしましたので、この辺で。