夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

私探し。

”「私探し」というこの言い方が、私は以前からもうひどく気にいらなくて、(後略)”

 池田晶子 「魂とは何か」P.21 トランスビュー 2009

 

池田さんがなぜに「私探し」が気に入らないのか。

上述に続き、理由が書かれている。

 

”そんなの、探さなくたって、ここにあるじゃないの”

 

これが難しい。

 

なぜ、ここにあることを、感じないのか。ここにあると、わからないのか。

 

そしてなぜ、池田さんは、わかるのか。

 

 

これはたぶん、今、に生きることが深く腑に落ちている池田さんと、今に在らず、過去のふがいない自分の行状の結果である今この自分はだめだめであるので、探すことにより未来によりよい自分がある、と思うことが、今の自分のこの”気持ち”を慰撫する最上の癒しという名前の逃げ、であると心の底ではわかっているが、表面的にはわかっていないことにしている私の//あなたの違いの所為である。

 

自分にとって損であるのに、そして”魂では”それを感じてなんだかアラームも小さくどこかで鳴っているのに、得であるということにしている感(損して得取れならぬ、得して損取っている感)などなどが、池田さんにははがゆくてしかたがない。

 

それでいいの?そうじゃないわよ。

 

青い鳥、でメーテルリンクはこの自分探しを象徴的に童話として伝えている。

探している青い鳥(=理想の自分)は、探しても見つからず、そも探すものではなく、あなたの中に、今、ここにありますよ。

 

たぶんそんな感じである。童話、というより寓話であろうか。

 

肉体と、肉体から”腕を一本取られて痛いなあとする”私”と、取られても本質的にはなにも変わっていない”私”と。

 

みっつ、ある。結局、それは一つであり、そして”全”でもあるのだろうが。

 

池田さんは8年間の思索ののち「我思う、ゆえに我あり」に到達したデカルトを例に出される。

 

これはうろ覚えだが、確か池田さんは、この訳、ちょっとおかしくて端的に「思う我あり」が正しいとおっしゃっていた気もするが、

 

まあ、ここの”我”は、ふつうみんなで”我(=私)”と思っているものではなく、腕一本とられても本質はなんらかわらないところの”我”であることは、基本どちらの訳でもわかる。

 

だが、この”我思う、ゆえに我あり”、これも腕取れて変わらない”我”がわからないところにいるとなんのこっちゃとなる。なにが言いたいんですか、となる。なにをいっているのか、わからない。

 

だが、たぶん、ひっかかる。魂の深部に。

 

あ、なんかここに真実あるみたい。

 

そうくる。ひっかかってそのまま終了、ということもあるかもしれないが、たぶんひっかかるはみんなある。だからこの言葉が残る。

真実だが、感得しにくい、しないまま終わり勝ちな、真実として。

(終わり、は始まりかもしれませんが)

 

いわば”わかりの虎の巻”だ。Short Cutだ。

 

デカルトは、なんというか、この言葉で皆さんの気持ちを大きく変えた、のかもしれない。

 

""神の僕たる我々”(つまりは、神と私はどこまでいっても別である)から、”我がある!””あれ?この我ってなにかなあ””もしかして全であり、一であり、いわば皆さんが”この世界を作りたもうた全知全能の神”、とおっしゃるものをも含む全て(の一部)みたいなもん????!”

 

ということにもなんなんとするところの気持ち。

 

まあ、ちょっとそれは極端かな。

 

でもすこしそんな感じする、的な。

 

 

我を通じ、今ここに、永遠が在る。探そうとするこころではだめ。

未来の自分、ということで逃げてもだめ。いいとかわるいとか、こんな自分じゃだめとかは逆にだめ。

 

不十分でふがいないかもしれないがその自分を受け入れること。そこから始めるのなら、未来ではない、次の”今”になんらかの変化をすることはできるのかもしれない。

 

いわば終り的出発点。

 

不満からではなく、満足から今の連続である先の”今”に向かいましょう。

 

まあ、そんな感じではないだろうか。

 

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すこし追加です。

 

池田晶子先生の、”読者からの手紙”(「魂とはなにか」ではP.130以降)、実は僕は結構好きで、読むたびに自分では出してもいない手紙なのだが、なんだかすこし涙ぐんでしまったりする。最近涙腺が弱めだからかもしれないが。

 

”なぜ存在論なのかと言えば、やはりそのような社会的雑音が減ったということに加えて、科学的認識の限界が見えてきたことが挙げられると思う。脳や宇宙を物質として明らかにしてゆくことによって、かえって明らかになるその限界である。脳も宇宙も、それらが物質であってもいいのだが、では、それが物質として「在る」とはどういうことなのか、その問いに科学は答え得ないということに、人々が気づき始めたのではないか。”

「魂とはなにか」 P.140

 

米国では、化石も含めて6日間?(でしたっけ?)で世界が神によって作られたと信じている人々が一定数おり、進化論が学校で事実として教えられない、という記事をどこかで読んで、米国とは、宗教とは、いかに人を盲目にするのか、といったような感想を持ち、宗教ってやばいなあ、などと思っていたが、

 

これは実は一方では”科学ですべてを知ることができる”という科学教である、という視点を池田さんの著書から頂いた。

 

なので、例えば世界の成り立ちを”6日間(でしたっけ???)”で神が作った(ことにして)考え方を止揚(うーんこの語の使い方は実はよくわからない)してそこから考えよう、科学万能、ではちょっとね、という態度にもしかして米国の皆さんはいるのではないだろうか、ということも少し思っている。

 

在る、があるが、それはどういうことなのか。

 

それを考えるのが存在論であるならば、答えは明確とは見えず、一見茫洋としたある意味頼りないような外観を持っているだろうと、思っている。