夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

書くことの、意味。

真理であるほど、言葉は逃げる。

「諦めないこと、書くことです」

「書いて、一歩でも前へ進めることです」

「そうでなければ、我々がこの宇宙に存在したことの意味はないのですから」

埴谷氏は、そう言って私を叱咤した。

 

 


池田晶子 死とはなにか P.218 初出「出版ダイジェスト」1998年10月21日号「言葉の力」改題

 

27歳当時の池田さんが、晩年の埴谷雄高に言われたことばである。池田さんは1960年の生まれであるので、1987年ころのことだろう。

 

埴谷は、言葉を書くことが、我々がこの宇宙に生まれた意味だという。このときに埴谷はいう「言葉」とはやはりロゴス、真実の響きを持つものだろう。

 

池田さんはなおも書いている。言葉は自ずからわかるものではない、と。受け取る側の、持ち出しが必要だ、と。そして真実は言葉となり、それを発した者から受け手へと伝わり、その受け手が再び、書いて別の受け手に伝える。かくして真実は永遠の命を持つ、と。

 

こうしてインターネットで書くとき、私のなかでは、インターネットを通じて、書いたことがあるいは長く、あるいは永遠に後世に残るのでは、という思いを少し持っている。プロバイダーがなくなれば。維持できなくなったら消えるよね。そうも思うのだが、だが、残る可能性があるようにも思う。

 

言葉を紙に書いたり、口述する時代はそうではなかった。そもそも力がある言葉しか、生き残らない。言葉の自然淘汰は、言葉が人に語られてから何万年かわからないが、当たり前のことであった。そもそも言語の違いだってある。

 

インターネットでは、翻訳がある。玉石混交だが、なんでもかんでも残るイメージだ。玉は、検索順位で示される、と思う人も多いのだろう。

 

だが、自然淘汰で、波に洗われて岸壁が厳しい角度を持つような、そんな選別は起こりにくいだろう。もちろん検索順位で似たようなことができるのかもしれないが。

 

そこでは、そこにおいては過去よりもさらに、真実を表す言葉が、自ら力を持った言葉が、必要なのだろう。

 

埴谷雄高 → 池田晶子。 私にとってはロゴスとロゴスの対話のようにも、思えます)

死とは何か さて死んだのは誰なのか