本、とはなにか。
言うまでもなく、言葉が、詰まったところである。
そして”古典”。年月がその真価をどうしようもなく露わにしてしまった結果、残るべくして”残ってしまった”本、それを古典と呼ぶ。
当然ながら、残るべくして残ったなんらかの理由がある。
古本屋には、そうした本が混ざっている可能性がある。ただし、”年月の選択”の結果、残されず淘汰されている途中の本も当然混じっている、というか、そちらの本の方が、多いだろう。
だから、古本屋に行って、じっくり棚を見る、ということがあると、危険なのだ。
なぜか。”おっ”と思ってしまうからである。一期一会、などという危険な言葉が脳裏をひらひらと舞う。
・・・買ってしまうのである。
実は、最近そのことを自ら戒めていた。理由は簡単、置き場がないのである。このブログでも何回か書いてきたかもしれないが、僕は贅沢なことに”書斎”とたぶん世間で言われるところの部屋がある(3畳だが)。
大変に、ありがたい。
こうしてブログを書くのは、どうしても一人になることが必要だ。絵を描くのも、一緒。人がいると、できない。
贅沢なことかもしれないが、そうだ。たぶんブログなら、衆人環境(周りに知った人がいない)であれば書けるのかもしれない。だが、時間によって、書ける内容はたぶん変わる。昼間だと、どちらかというと頭は働かない。身辺雑記に、なってしまうだろう。
だが、当然その部屋を、”創作のコクピット”たらしめるためには、その燃料として、起爆剤として、触媒として、本、というものが置かれる。
・・・置かれすぎなのだ。
いまは正直、”足の踏み場がない”。
当然本は今は床に積むステージにある。
元来、整理できないタイプの僕は、捨てられないタイプでもある。
だが、床に積むレベルになると、問題はもう本がどこにあるかわからない、ということだ。
そうなると、”たしか買ったよな”となった時が悲惨である。だいたい、見つからない。これは捨てるのがいやだ、というストレスの次くらいに厳しいのである。
・・であるが、昨日五反田のBOOK OFFに行ったのである。
BOOK OFFは当然立地で品物の質が違ってくる。東京はやはり人口が多いのか、名古屋のBOOK OFFでは余り見ないものがある。
1冊見つけると、いつか買おうと思っていたあの本もついでに、となる。
また最近は少し”新書づいている”。
新書を、買ってしまうのである。あの、細長い感じ、あまり厚くない感じ、がなんとなく文庫より手に取りやすい感じがするのである。
ということで、4冊。鞄がパンパンであった。
- 作者: V.E.フランクル,霜山徳爾
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- 作者: プラトン,藤沢令夫
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- 作者: 曽野綾子
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いずれも、送料を考えるとAMAZONで買うより安い。
特にフランクルの本は、安く買えた。林氏は、ユング研究家で、法学部出身、というところがなんとなく親近感で、読んでみたいと思っていたもの。
”国家”は、とうとう、という感じである。2008年の改版で、レイアウトが読みやすくなっている感じだ。
曽野氏の本、老人の小言のようだ、との意見もあるようだが、歳を取り、思うことを思う通り伝えます、という態度、これはわが池田晶子さんのスタンスに通じるものがあると思うのだ。
耳には痛い。だがそれは真実が真実としてそうであることを、自らが知っているからではなく、伝える。誰が言っても、真実は真実。そこに筆者の創意工夫はない。正確には料理のしようはあるかもしれないが。
曽野さんは、そのステージにいらっしゃると感じる。
一文を引く。
”品を保つということは、一人で人生を戦うことなのだろう。
品というものは、多分に勉強によって身につく。本を読み、謙虚に他人の言動から学び、感謝を忘れず、利己的にならないことだ。受けるだけでなく与えることは光栄だと考えていると、それだけでその人には気品が感じられるようになるものである。”
人間にとって成熟とは何か 曽野綾子 P.100より
ほらね、直截でしょ。
この直截さ加減が、こちらの受けのエネルギーが小さいと、受けきれない場合があるようにも思う。
しかし、そうだよなあ、と思う。こういう言葉を受けきりたいとも、思う。
えー、タイトルは、引き続き読んでいる”池田晶子 不滅の哲学”から。
うーん、引き続き、読み飛ばせない。新幹線で読んだが、ちょっと抜き書きしようとすると、どんどんどんどん出てきてしまう。
「生ける死者」とはなにか。生きているが死人のようだ、という意味では、当然ない。逆だ。”死して”いるが、その精神は、魂は、生きている、と感じられることをいう。
この”生きている”をうまく感じることが必要だ。
あの”幽霊ですか?”という感覚ではだめだ。
多分、ここで”魂”が出てくる。
ここでも”死んでも魂が残る(幽霊的に、不死的に)”では、たぶんダメだ。
ここのところが、大事なのだ。
そうではない、そうではないが、そうである。
なんだか禅問答に近くなってはくる。だが、たぶん池田晶子の読者には当たり前すぎる当たり前なのだろう。
P.29
”だが、彼女は「生ける死者」となった小林に、何度も「手紙」を書く。”
P.30
”彼女は「愛」に冷淡だったのではない。むしろ鋭敏だったのである。”
この引用文を読むだけで、作者の池田晶子理解に脱帽だ。読む、しかないのだ。
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