エックハルトは、神と神性を区別した。
神性の内にあるすべてのものは一つである。そして、このことについては何も言うべきことはない。神は用(はたら)きたもう。しかし、神性は用かぬ。
エックハルトにとって、神性とは”動かぬものであり、そこに到達するいかなる道もない(apada)ところの無なるものであることに気づくのである。それは絶対の無であり、それゆえ、そこから万物が由来する、存在の根底なのである。(P.33)
ここでいう”神性”、これは池田晶子さんがおっしゃる"故郷(ふるさと)”に近しいものだろう。池田さんの本を読んで、故郷に帰りたいと書いてよこした読者への返事として池田さんはおっしゃる。
”池田先生も故郷に帰りたいのですが、生まれてしまった以上もうしばらくは(真実を池田某といいう口から”巫女的に”世間に伝えるという)続けたい”と。
(すみません、ここの記載は私の記憶からの引用になります。大体ことのようなことをおっしゃっていたなあ、という。。だがここ、先生だと奉られることを嫌がった池田さんだが、青年の思わずの吐露の”池田先生”に対し、あえて笑って受けてくださっているこの感じ、池田さんのお人柄が伝わる大好きな箇所だ)
神、が動くことである、というのは、神が自ら遊び、その過程、経験を楽しんでいる、という考え方に通じるのかもしれない。そしてその理由は”ない”。
人(=神)はなぜ遊ぶのか。
理由はない。あえて言えば暇だから。
人は自らの生に理由を求めがちである。理由がある、生きる意味を探す。
しかしそれは”エゴ”の、自分はスペシャルである、と思いたい、というエゴの存在理由探しなのではないだろうか。
理由がない、とは、池田さんのおっしゃる、”あら、生まれちゃった。生まれたからには死ぬまでいきるしかない”という境地のことであろうか。
エックハルトや、老子や、イエスが伝えようとしたことと同じことを、週刊誌、月刊誌の、いわば”どぶ板”紙上にて、池田さんが伝えようとなさったことに、感謝と驚きを感じる。
よく池田さんはおっしゃった。真実を伝えたときのひとびとの反応。唐突だ、の感あり。みなさん鳩が豆鉄砲をくらったようになる、と。
”ビジネスマン”からは、”結構なご身分ですね”といった揶揄を受けることもある。
この揶揄、裏にあるなあ、”エゴ”が。自分は”働いて稼がなくては。食い扶持を稼ぐ。それが自分の存在理由。”
であれば。
仕事は無味乾燥で、パワハラブラックであるほうが”やった気がする”。
耐えている私。稼ぐ、わたし。
そうなんだけど。
そうした感情をぶつけざるを得ない”企業戦士(いまとなっては語感が古い感じがしますね)たち”に対し、池田さんは優しかった。
ときに、あまりの伝わらなさに、”無知なる大衆”に切れそうになりながらも、
”この世での最後”の瞬間近くまで、酸素吸入器をつけてまで、
池田さんは伝えようとなさった。
(だからこの世での”同志”を見つけたときは池田さんは喜ばれた。小林秀雄、埴谷雄高、四聖たち。その話はまた機会ありましたら。)
エックハルトの神性の話から、だいぶ外れました。すみません、つい。。池田さんのことを書くをこうなりがちです。。
だが、エックハルトの当時の”正統派キリスト教界”にとっての異端派感、現在の”ビジネス界”にとっての池田晶子さんの”鳩豆感”の根底には近いものがある。
だが、異端派となればへたをせずともグノーシス派(真の神と嘘の神というグノーシスの区別は、エックハルトの神と神性の区別と同じ感触である)のように抹殺されるのであり、現在の”ちょっとキレーなネエチャンが真実を言う”という池田さんの扱いは、
実はそれでも少しはましな方向に、
人間界も行っていることの証左、
なのかもしれない。