夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

年齢。

前後ありといえども前後際断せり

道元


名古屋に帰っている。東京の風景がなじみだした分、こちらの風景が少しくよそよそしく感じられるような気がする。

人はやはり場に染み付いて、しがみついて生きているものなのかもしれない。

そこで流れる時間、人の物量・総量、”気”といったものが、やはり違うのだな、と思う。違っていてどうこう、というわけではないが。

しかしこの場は、一瞬である、そして永遠である。時間、が流れるのではあるが、そも流れているのは本当に時間なのか。僕は、何を、感じているのだろうか。

さよならソクラテス、を今回は持ってきた。単行本版のほうだ。

さよならソクラテス

さよならソクラテス

冒頭の道元は、この本からの引用。いま参照しているのは集約版である”無敵のソクラテス”のほうであるので、P.393 彗星がやってきた! の項に池田晶子さんは引用をなされている。

無敵のソクラテス

無敵のソクラテス

その引用ののち、池田ソクラテスは名言を吐く。

”(中略)道元のヤツ、うまいこと言ったもんさ。そう、全存在は、電光石火で、僕なのだ。”

道元の感じている”際断”が見事に、言い換えられている。言い換えだけではない、その言い換えによる気づきもある。

・・・そうか、道元、そういうことを言いたかったのか!!!


池田さんは、哲学とは哲学解説書とはちがう、哲学解説学者と哲学者をいっしょにしないように、とクチをショッパクして言い言いされたわけだが、こうして池田本を通して道元の思想に接すれば、その真に伝えるべきところが、真実の凄みをもって僕に肉薄してくるのだ。

すごいなあ、池田さんは、やっぱり。

僕は、そう、詠嘆・感嘆・独言せざるをえない。



池田さんがお亡くなりになった年齢を過ぎてもなお、池田さんには遥かに遠し。

おこがましいとはおもいつつも、すこしでも池田さんがごらんになっていた風景をいっしょに見たいものだと思っては来たものの、道は遠し、だが、道を示していただいたことは、この上なきシアワセ。

そんな思いにとらわれた。

で、タイトルにした”年齢”。


彗星をテーマにしたこの項で、年齢=時間の集積、と思われ、”そういうことにしている”大前提、仮定ではあるが、一握りの(池田さんのような)”宇宙人”を除いたほとんどの現生人類(変な言い方ですが)が忘れてしまっている”時間”に関する気づきも、本項の重要なテーマである。

P.382。

”ところで、この「年齢」という考え方だがね、人はなにかの年齢を、年齢を計りたいものそれ自身で計ることはできないよね。”


宇宙には宇宙しかない、月日というのは、月と太陽と地球との関係で計るものである。つまり年齢、というものは、”自分で自分を計る考え方”である、と池田さんは、そして池田ソクラテスは指摘されるのである。


この考え、もしかすると皆さんお持ちなのかもしれないが、僕にとってはまさに”目からうろこ”である。蒙を啓く、というまでは残念ながら行かなくとも、すくなくとも”蒙”の存在を示して頂けた気がしたのである。

だから、全存在は、僕なのだ。

僕がどんなに”しょうもなく”とも、そうなのだ。

どんなに”残念”でもそうなのだ。


うーむ。




46億年前の地球、46億年後の地球、それは前後しているのか、もうきたのか、まだなのか。

まさに足元が崩れ、宇宙に、精神に、”魂にたゆたう”思いがする。

そしてそこで池田さんはおっしゃるのだ。


足元がくずれる感覚がありますが、それで狂うなどという甘いことはしない。その感覚と同化し、並走し、突き抜けてゆく、”考え”で以って。


ああ、この解釈の部分は僕の勝手な理解なのですが、たぶんしかし、そのようなことをおっしゃっているはずだ。

そしてまあ、天空にあまねく存在する池田魂の広大さにくらべ、あやふやな地面で、悩み、はいずる僕魂は相も変わらずやはり地上にしがみつく。


”あ、池田さんは8月生まれ、では実は学年で行けば4つ違いだったのか!!5つと思っていたが”


ああ、この人はまだこんなことを。


池田魂の脱力を感じつつ、僕は思うのである。




翼が、欲しいなあ。。。