さて、お盆である。
昨日は満員の新幹線で留守宅へと帰宅(宅宅すみません)したわけであるが、なんとか予約でひかりに座ることができた。
横には最近流行?の中華旅行者、たぶん大学生くらいなのか?一見大人に見えるし、体格は大変に雄渾、であり、昨日は満員でグリーン(いや、ポイントで通常料金で乗ったのであるが)であったにもかかわらず腕が国境線を若干越えている。
ママ?にパックの焼き栗?をもらったり、飲んでる飲料はカルピス系であるところ、どうみてもスペックは小学生なのだが、いやあ一見やはり少なくとも大学生に見えるが。。。
まあ、結構こうした移動は世間で起きているできごとが凝縮されて発露している、いわば”焦点”のようなスポットであるのだが、リアルに隣席に来るとこれが自身に関する問題となる。
つまり、ヒトゴトではなくなる、ということだ。
・・・ということで?池田晶子さんである。
いや、こう暑いと、なにか宣託を伺いたくなるではありませんか。
池田さんはご自身を謙遜してか一流の皮肉なのか(いや、僕は皮肉、というやつは、自身が偉い、という目線でのものいいという一点だけで、それを言う人のことが嫌いになるのだが、もし池田さんが皮肉という意識であられたとしても、それが私ではなく、真実がこの口で言っている、となるので、それを嫌うことは全くなく、そういう意味ではそれは皮肉たりえず敢えていえば”諧謔”か)ご自身をお正月の鏡もちに例えられたりするわけだが、お盆もまた日常のなかに突然強制的に入ってくる非日常の数日間であるので、同じくすこし頭をクールに冷やしたくなる。
池田晶子 無敵のソクラテス 第2章 悪妻に訊け P.193
あたしの岩波物語 より
「知っていて悪を為す者はない」
「正とは不正を為さざることである」
クサンチッペ
何を言ったことにもなってないじゃないか。
・・・ほら、このドライブ感。闇なべ的にぱらりと紐解くと文字通り零れ落ちるこの金言。
暑さが、この世のことになる。
引き続き引用する。少し、長くなる。
なぜってー僕は、死とは生がそれに対して何らかの態度を取るべき何かであるのかどうかを知らないからだ。それを知らないということを、明らかに知っているからだ。いいかい夏彦君、死によって生である、無によって有である、知らないことによって知っている、僕らがいま居るというこの日常の生を、「普通の判断力と良識」とによって「最大の努力で思考」したときに現れるこの不思議な事実を、無理を承知で哲学の言葉に置き換えてみる。するとこれが、「絶対矛盾的自己同一」とでも言うしかないことになるのだよ。西田の苦労も少しは汲んでやりたまえよ。
同P.197
やさしいことを最優先にする態度である田中美知太郎と、それを評価する山本夏彦氏の岩波書店批判に対するコメントだ。
やさしいことをやさしいが故に愛し、それを知ること、考えることの上位におくから、池田さんは批判されるのだ。立ち居地が違うでしょ。やさしくするためではなく、考えるから、考えつくすからやさしくなることも、ある。
そうおっしゃっているように思う。
いや、もうなにを言っても池田さんのこの宣託を拝聴するだけで充分である、十二分である、十八分?である。引き続き引用。
哲学という思考は、人生について思考するからこそ、決して人生論にならんのだ。「歴史理解」も「深い人間理解」も必ずしも必要じゃない。必要なのはただ思考が思考することを思考するというこのことなのだ。それを書物によらず自分の頭ですることなのだが、これはやはりある種「独特の論理」ではあるのだ。そしてなお困ったことには、それを文章で表現するときに、該当する言葉が、この世にないのだよ。しかし、カントもヘーゲルもそれをやった。言葉のない「考え」を、何とか言葉にしてみせた。
同P.197-198
考える、という態度をきちんと考えているから、当然こうなる。優先順位を違わせてみる、というところの安易さを指摘される。
引き続き、読んでみる。もう、痺れっぱなしだ。そうか、電気うなぎ(だったか)に例えられたソクラテスに、池田さんはなっているのだもの、これは痺れて当然である。
そうだねえ。しかし、あながち全くの無駄というわけでもないのだよ。
クサンチッペ
なによ、言ってごらん。
正義だ。正義のためだ。正しく生き、正しい人となるために、僕らには哲学が必要なのだ。
クサンチッペ
怒るわよ。
同P.199
いや、ほとんど連続しての書き写しだが、なんだか口述筆記の感がしてくるではないか。哲学の巫女たる池田さんが口述された書物?(いやここでは石碑に記された、というような意味にとってください)を再びこうしてここに転写する。あ、これが”写本”の正しい意味だったのか。”写経”でも、いいかもしれない。
教祖にはならない、とおっしゃって若干心配して予防線をなぜ池田さんがおっしゃるのかと、思う部分がありましたが、なんとなく実感。ああ、痺れる。
この痺れ、こそ、時のギリシャ支配者がソクラテスの中に見た恐怖の正体なのかもしれない。
そういう意味ではギリシャの支配者、正しくわかってんじゃん。
あ、なんだかクサンチッペ入ってきたぞ。
寒いのが苦手で、温泉大好きだった池田さん。では、暑さはどうだったのか。
結構お好きではなかったかと、愚推する(こんなことば、ないか)。
山登りもなさった池田さん、暑さはけっこう身近に感じてらっやったような気がする。
そう思うとこの暑さ、すこしだけ愛おしくなるでは、ありませんか。
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