夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

解らないと、解らないことが、解らない。

池田晶子さんをキイワードに検索していて、池田さんがおっしゃった”解らないと、解らないことが、解らない”という意味が解らない、との質問があったのを見つけた。

さもありなん(笑)。

なにしろ”解らない”が3回も出てきますからね。これは確かに解りにくい。なんだかいわゆる”謎なぞ”の様相を呈しているようにも見える。”哲学の巫女”とご自身のことをおっしゃることもあった池田さんであるが、池田さんがこうおっしゃって(書かれて)いるのを見ると、僕なぞは池田さんのご尊顔をもったスフィンクスに質問されているような気もする。いまは”浮世”にいらっしゃらない池田さんであるが、こうして質問、文章の形で、僕の前にいつでも現前される、という気がするのである。超自然的な存在。巫女はもとから超自然のモノ、神の神託をのべる口をもった存在である。池田さんの場合は神託=真実、ということであったろうが、いずれにしても。

この質問に対する回答は”締め切られ”ていたが、妙に引っかかったので、通勤途上でつらつら考えてみた。

まあ、池田さんがよくおっしゃっていたことではあるだろう。池田さんがもっていらした3つの大きなテーマ(いろいろな表現ができるであろうが、敢えて3つで表すなら)は例えば”私とななにか””死とはなにか”そして”魂とはなにか”といえるかもしれない。基本、順不同であるが、考えるテーマによって、この”3つの問い”の順序が出来る場合もあるだろう。例えば今の、僕の気分で行けば前述の順番になる。

まあそうした問いを人生のテーマに、考えて生きることの美味しさ、考えることが日々愉しくなる、というようなことを池田さんはおっしゃったわけであるが、この”考える”、人生の伴走者、あるいはいつも鳴り響く重低音的BGMと看做せば、これほど愉しく、変化のあるテーマというのか、姿勢、というのか、基本姿勢というのか、ともかく素晴らしいものはないだろう。

僕が池田さんに頂いたもの、は煎じ詰めればこの佇まい、ということに収斂するのかもしれない。

で、その”考える”が発動する、というのか、前提というのか、ともかくも考え出すことができるためには、この”解らないと解る”ことが必要なのである。いわゆるソクラテスの”無知の知”というやつだ。

君はわからない、ということがわかっていない。少なくとも僕は自分がわからないということがわかっている。

ここ、読みようによってはソクラテスの意地悪さのように感じるところであるが、多分ソクラテスはそれほど悪意を以って言っているのではない。しかしなにか自分の根本の甘さ、というものを指摘された気がして、人は言われたことになにか腹がたつ、という場合が多分多い。赤面する、恥ずかしい、となにか端的に”想わされてしまう”。

そこのところは、結構人間の”魂の初期設定”に関わるところであるような気がしている。この”魂の初期設定”という考え方も、池田さんがよくおっしゃっていたことであるが、ニンゲンはなんとなく生物として生き延びやすくなる要素として、わからないとわからない、ということは一旦は棚上げして生まれてくるように想う。いまは、いらない。

しかし、こうして”赤面させられる”ソクラテスは”アブにさされる”と称したようだが、そうした経験を経ることで、”気がつく”固体が出現する。全てではない、ごくまれに。
(ここはもしかすると”人類の進歩”というものに関係する部分なのかもしれない。人類の、魂の、進歩。)

そういうふうなことが解り、おせっかいにも嫌われ役を買って出た、というのがソクラテスであり、池田さんではなかったか。

大きなお世話、一銭にもならない。というか、嫌われ、誤解されることもある。ソクラテスなぞは、そのために死刑となったほどだ。

しかし、皆さん、気がついたほうが愉しいよ、人間、上品と下品がある、下品であることをおおいに差別しよう、と池田さんがおっしゃったとおり、上品な、考え方が、出来る。

これは素晴らしいことだ。

勿論僕が”わかっていて、上品な人間だ”と強弁したいわけではない。ただ、そのことはわかっている、ような気がしている。

池田さんがおっしゃった”解らないということが解らないことが、解らない”という言葉は、なにかそのようなことをおっしゃっているような気がする。わからなくても、いいのである。でもわかったらあなた、そこには素晴らしい世界がありますよ。

生きながら死のことを考える。そこにはもはや生死さえない。生きながら死んでいる。死んでからも生きている。この”開け”。

詩とは最少のことばに大きな地平を秘めた言葉の群れであろう。散文(小説)は多くのことばですこしのことを語る、といったのはブコウスキーだったか。

池田晶子という人は、つくづく詩人の魂を持って在った人であったのだなあ、と、ここ、詠嘆するところかもしれない。