夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

私の幸福論。

一日は一生の縮図です。
それを悟って粛然たる思いがするとき、
初めて人は人生の真実の一端に触れる

  森信三

東大教授で盲ろう者、つまり目が見えず、耳が聞こえない状態である福島智氏の著書、”ぼくの命は言葉とともにある”を読んだ。

僕より少し年長の氏であるが、氏は生まれたとき、眼も耳も使える状態であった。9歳で目の、18歳で耳の機能を失った。

つまり、生まれついてのものではなく、光も音もある世界から、無い世界へ移行された方である。

従って、なのか、だから、なのか、その著書はご自身の幸福、というものを追求し考えることから、大きく”人の幸福”を考察するものになっている。

そして、氏は、僕の育った町の隣の駅のご出身であった。隣駅へは一人で耳鼻科へ通ったこともある。あるいは、近くで過ごしたことも、あったのかもしれない。
そのことも、氏を身近に感じることになった要因かもしれない。

何点か、著書から幸福に関する記述を引用する。多くは、氏が他の書物から引用されているものだ。

”楽しみは後ろに柱前に酒、左右に女ふところに金”

落語がお好きな氏が、桂米朝が紹介したという古い狂歌であるとして引用されたものである。

落語、のすごみを感じる引用である。

身も蓋もなく、人間の欲、というものをこれほど見事に網羅した文章は、あるいはほかには無いかもしれない。

全てが、網羅されている。そしてそれを暴露するときの、もう一度いう、”身も蓋も無さ”。露悪、という語も浮かぶ。

つまりすべての人が持っており、敢えて綺麗に見せたくなる”欲望”であり、”本音”。

後ろに柱=住処の安寧。前に酒=前提としての食料が確保されつつ、嗜好品としての酒があること、安心して酔えること。左右に女=これは二つの要因があるだろう。あるいは3つか。一つめは性欲。2つ目は2人から好かれるという自己への満足。そして1人以上の人数で表される”社会”からの容認。尊敬、という要素もあるだろうか。

最後の”ふところに金”という語もなんとも味わい深い。将来への安心、ということが最大であろうか。後述するが、人の幸福は、過去の目線で今の自分を見ての評価であるという。金を持つ自分が安心できる、という”過去目線”から、手を入れると触れられる”安心”としての”金”。

話がずれるが、僕は”お金”という語が新聞等で使われるのが好きではない。おためごかし、という語が浮かぶ。かっこつけてませんか、と思う。金の機能はわかっている。綺麗でも汚くもない、使う人間の心根がまっすぐ出る。ならばはじめからなぜ”お”をつけてごまかすのですか。端的にそう思う。もしかしていちばんイライラする語かもしれない。あ、熱くなってしまったので、それはさておき、

まあ、ということで、全ての人間の幸福、と言われる要素が含まれてはいる。含まれてはいるのだが、そう露悪的に言ってしまうと、それだけか?という贅沢が出てくる。


そうそう、それが落語の啓蒙的なところ。衣食足りて礼節を知る、というところに、ひそかに導くところ。落語の凄み、といってもいいかもしれない。

分かりやすく、導きたくもない。照れ、がある。美学といってもいい。しかし、言っている。人生とは、何か。



氏はまた、バートランド・ラッセルの”幸福論”からも引かれる。同書P.222から223にかけて記載されている引用である。

”たいていの人の幸福にはいくつかのものが不可欠であるが、それは単純なものだ。すなわち、食と住、健康、愛情、仕事上の成功、そして仲間から尊敬されることである。”

”幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である。また、こういう興味と愛情を通して、そして今度は、それゆえに自分がほかの多くのひとの興味と愛情の対象にされるという事実を通して、幸福をしかとつかみとる人である。”

ラッセルの引用の前段は、冒頭で引いた狂歌の内容を網羅している。少ない語で同じ内容をじわり伝える狂歌の機能に感嘆する。まあ、それはいいが、問題?は2つ目の引用だ。そう、”衣食足り”たのちのことが書かれている。そしてこのことに到達することは、実は我々の人生で、あまりないことなのではないか、と思う。

自分の人生を客観的に見ることが、まず難しい。精神の、いわばある意味での”成熟”が必要なのだろう。これも文頭で引いた森信三氏のことばを再び引く。

”読書というのは、いわばその人が
これまで経験してきた人生体験の内容と、
その意味を照らし出し統一する
「光」といってもよいでしょう。
だから、せっかく、深刻な人生体験をした人でも、
もしその人が平生読書をしない人の場合には、
その人生体験の意味を十分に
噛み締めることができないわけです”

たとえばこれである。読書。書を通じ、他人の人生を感じ、取り込む。そんな練習が、客観的に自分の人生を見るためのは必要であろう。

ラッセル引用文の後段につながる、もう一つ重要な引用を氏はなさっている。吉本隆明氏の文からである。P.226より、

”わたしたちはまえを向いて生きているんですが、幸福というのは、近い将来を見つめる視線にあるのではなく、どこか現在自分が生きていることをうしろから見ている視線の中に、ふくまれるような気がするんです”

この視点の斬新なこと、そしてそのことを深く感得される福島氏の心。

この吉本氏の言葉から感じたのは2つ。2つとも、叡智の言葉である。一つはユダヤ教の前提となる、”未だ犯していない罪を事前に悔いる姿勢”である。もう一つはソクラテスの”洞窟の比喩”。

客観的に生きる、ということはつまり、生きていることの奇跡と、それを感じないことの罪を感じ、それをベースに生きることではないだろうか。

その姿勢こそが唯一、ポーズではない、偽善ではない、”身を処す”姿なのではあるまいか。


福島氏の著書から導かれた、私の、幸福論、である。