夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

境界について。

境界について。

 

形而上学(メタフィジックス)の究極の秘密とは、思い切ってシンプルに言えば、宇宙には境界はない、ということである。それはリアリティ(実在)から作られたものではなく、われわれが地図を作り、リアリティを編集するために作られたものである。土地が地図を作るのはいいが、土地そのものと地図を混同するのは、致命的な誤りである。

ケン・ウィルバー 「無境界」 CW1:462

 

 

眼から、鱗が落ちた。

こうして改めてケン・ウィルバーに指摘されて、初めてその通りだと分かった。

人は生まれて、”文化”のなかで物心がつく。文化とは、ケンの言を待つまでもなく、”仮にそういうことにして生活しましょう”ということのはずであるが、或いは”人為的なルール”であるのだが、あまりに日々がその中に在りすぎて、そのことを気づくことは実は一生涯ないのが、普通の人生であったりする。

いや、当たり前だろう、という人々が少数いるようだ。例えば池田晶子さん。池田さんは、そのことに自覚的であり、例えばスーパーで買い物をしていて、貨幣を取り出してみて、その意味を不意に深く考え込む、ということがあったとその著書で書かれている。これはボケているのではない。メタフィジックスに深く住まう池田さんが、日常が描きだすルールのもろさに、不意にとらわれた、ということである。

これはもしかして、ソクラテスの洞窟の比喩、が示すことでもあるのかもしれない。いま悩み沈溺し、それをすこしでもよくしようと努力する日常が、単なるニンゲンが決めたルールであること。そのことは一度気づくと常に自覚的であることができる(そうでないこともあるだろう)が、それは”真剣に生きる”人々からすれば、斜に構えた、鼻持ちならない、などという感触となるリスクがある。だからソクラテスは言ったのではないか。そのことを知ってしまった人は”人々に弑される”(正確な引用ではありません。記憶です)と。

 

だがだが、それは事実なのだ。その事実にがっかりする向きもあるかもしれない。だが、がっかりから回帰すると、”一回行って帰ってきた”ということにも、なるのかもしれない。

 

そうであっても、そうであれば更に、生は奇跡であり、愛しいものだ。 そういうところに、だいたいは帰ってくるのではないかと、 感じている。

 

(本来ない境界を作り、その中で生きるということが、人生はゲーム(日本語的に”無駄な遊び”というニュアンスを極力排した、遊ぶ人類が遊ぶ対象としての)である、という考え方につながっている気がします)