夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

幸福論。

ヘルマン・ヘッセ 幸福論 P.42

”美に対する人間の喜びには、いつも精神と感覚が等しい度合いで関与している。(中略)

それができる限り、人間は自分というものにまつわる疑問を繰返し処理して、自分の存在に繰返し意味を認めることができるだろう。

「意味」こそ、多様なものの統一であるから。”

”美”とはなんだろうか。

”真善美”という。なんとなくだが、この順番で重要であるような気がする。美、が一番先に来ることがないような。

なぜそう思うのか。美、ということばには、個人的であったり、享楽的であったり、という要素がある、あるいは、有り得る、という印象があるように思う。

だが、そうであるが故に、魅力的でもあるのだ。


文章と視覚。文、あるいは文字も視覚によって把握するものではあるのだが。文章からの刺激に比して、視覚からの情報は直截で瞬時にやってくる。わかりやすい、といってもいい。

”生きる哲学”若松英輔 P.90に、白川静氏の「漢字」から引用された文字に関する記載がある。孫引きとなり、若干長いが、引用してみる。

”文字は神話と歴史の接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割をになうものであった。したがって原始の文字は神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである。もし聖書の文をさらにつづけるとすれば、「次に文字があった。文字は神とともにあり、文字は神であった」ということができよう。文字はもと神と交渉し、神をあらわすためのものであった。”

文字により伝えるもの、美、あるいは絵画や彫刻で伝えようとするもの。

結局どちらも、”生”に繋がっている。




・・・そう、池田晶子さんのおっしゃる”生”だ。


彫刻家は、木の中にもともとひそむものを取り出しているだけだという。
であれば、魂は。

この世界にて、本来自分の中にある魂を、すこしずつ削りだすことこそが、人生である、ということも、言えるのかもしれない。

そう、”わかった!”と過去形にて物事を理解してゆく、そんな人生。

その”削り出し”の行為、文章であろうが、視覚・美によるものであろうが、所詮は単なる手段の違い、ということが言えるのかもしれない。

生きる哲学 (文春新書)

生きる哲学 (文春新書)

熟練の池田哲学の読み手であり導き手である、若松氏の本。


さまざまな先達を扱った文たちであるが、池田さんは含まれない。

あとがきを読むとその意味が分かる。哲学者池田晶子に、この本全部が、実は捧げられているのである。

品川駅のキヨスクで遭遇、やはり本屋にはたまに行かねば、と思ったのでありました。


ああ、今日は成人式。長男が、20歳に、なる。


なんともはや。


・・・おめでとう。すばらしい、生を!!