夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

アヴァ・ター。

アバター、ということばがある。

売れに売れた3D映画で有名になった言葉で、別世界で自らの意思を載せて動かす躯体、という風な理解をされているのだと思う。

もともとはヒンドゥー教の概念であり、アヴァとは”下方”、ターとは”通り過ぎる”を意味し、日本語訳としては”権現”や”権化”、化身という語も当てられているようだ。

天上に在る神が、現世に現れるときに仮にあり、通り過ぎる肉体のことを言っている。映画は巧みに、そして意味深にこの言葉を採用したようだ。

世界的には、さまざまな文明でこの言葉が理解され、使用されており、その文化的バックグラウンドによって場所場所、民族民族でそのタイトルを含めた受け入れられ方がまさにいろいろあったのだろう、と感じるところである。

映画では、別の星にて駆動する肉体のことをいうのだが、”そもこの肉体に精神としてある私”が、その精神のみを別世界で過ごすこととはなにか。

精神と肉体は別物である。

ということを改めて如実に観客に実感させる映画でもあるのである。



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肉体は老いる。だが精神はその変化に合わせて変化するわけではない。

これは自分で歳を取ってゆくときの感想だ。日々思うことである。

そして更に思う。


みんなそう思っていたのだなあ、と。


自分が子供のころはわからなかった。


肉体である両親を見て、両親はこの世界で、両親、という意識でずっとあった人だと、自然に信じ切っていた。

逆に子供を持つ立場になって思う。しみじみ、思う。


・・・・そうではなかったんだなあ・・・・・


子供である自分と、本質はなんら変わらなかったのだなあ、と。



なぜか、感謝をもって、思うのである。”親孝行しましょう”という言葉の真の意味は、そのあたりにあるのであろう。


他者である、子に、示した厚情。決して強制されたものではない。この世にはそのようなあらまほしい形で親であることがない親子、というのは、星の数ほどある。だが、”親孝行”ということばが”降りて”いるあなたは、そうではなかったのだ。


これは、そうしてくれた”親”という人々に、感謝すべきことなのである。なんとも、ありがたい、ことなのである。


ヒンドゥー教でいけば、アヴァターとは神が一時その中に居る場所である。その中にある”精神”は神、あるいは神の一部なのである。神の化身、ということばがピッタリその概念を表している。

しかし、例えば池田晶子さん。例えば埴谷雄高。はたまた小林秀雄

いや、この人たちが神であった、といいたいのではない。だがこの人たちの魂は。精神は。

池田さんは埴谷を指していったものだ。この人は宇宙人だ、と。

いやいや、ガンツのように、真性のよその惑星からの侵略者、という意味ではない。そうではないが、

この世にふつうに人として過ごすには、あまりにもかけ離れた魂のありかたをしている、とおっしゃりたかったのであろう、と僕としては理解している。

そしてそういう池田さんもまた。


詩人とは、言葉に降りてこられる”場”であったり、通り過ぎられる”場所”であったりする、というのは、これも池田さんのおっしゃったことだ。

ここでいう、”詩”、”言葉”といってもいいが、これが降ってくる”詩人の肉体”は、あきらかにヒンドゥー教でいう”アバター”と同じ意味会いとなる。

”言葉”は”神”である。


聖書はいう。はじめに言葉あり。


言葉がなくば、この世はない。言葉による定義で初めて物は存在できる。言葉なしでは、この世に在ることはできない。


精神、あるいは魂は、肉体と別であり、その精神が”世界精神の一部”と考えることと、”神の一部”と考えること、はたまたすべての魂は成仏する、と考えることは近しい。

今あるこの精神はもともと神の一部であるが、そのことを忘れている、というのが異端とされたグノーシスの教義である。禅仏教などでも自らのなかにある仏性、をいう。

神が別にある、とする”正当派”キリスト教からすると、なにもしなくともあなたは神の一部である、という魅力的な教義を持つグノーシスには、宗教として勝てない、と本質的に感じたのであろう。だから異端としてキリスト教から締め出し、徹底的に弾圧したのだ、と僕としては理解している。

そも原始的には”キリスト教”とは”宗教全般”を指すことばではなかったのか。


客観的に見ても、弾圧の良し悪しは別にして、そもいわゆるキリスト教グノーシスが同じ宗教観をもっていない点については、それは当たり前だと思う。


そして、言葉としての神、魂としての私を感じるとき、そのグノーシスの考えもまた、真実の一端に触れた概念である、と感じるのである。



言葉である、魂である、”私”が死後、という肉体の制限のあと、いかにあるか、あるいはないか。


そのテーマを考えるのがある意味宗教の存在理由であることからすれば、大きく開け、ひっくりかえる世界観を持ったこのあたりの(つまり、詩、や言葉、や魂とかのなんやかんや)考え方は、ある答えを暗示している、という風に、


いまの僕は感じているところなのである。