夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

人魚。

好きでいろいろと昔話や絵本なぞを見るのだが、”こども向け”に厳しい現実や、”見せたくない”という部分を主観的に削除されることがあるのが昔話の宿命である。

例えば白雪姫。最後は継母は(初めは実母だったという話を聞いたが)鉄の靴を履かされ、焼き殺されるし、赤ずきんではグリム版とペロー版では結果が違い、確かペロー版ではオオカミに食べられてそのまま終了である。

こうしたことを別に子供に隠すのが悪いと言いたいのではない。そのことには”死”を忌諱する気持ちが強くあり、”死”をもって起承転結の結びとすることが聞いているものの心に強くのこり、いわば魂に刻印するかたちで”なにかを感じる”ための昔話の知恵があるように思うので、それを消してしまう心には大げさに言えば昔話の機能を殺ごう、という再話者の意思を強く感じる、ということが言いたいのである。

そこには昔話の主な”ユーザー”である若い母親が、自らの子供の身近に”死”を感じさせることを厭う気持ちがあり、それを”絵本”を買ってもらうという商業性が入り込んだが故に変貌せざるを得なかった、という面があるのだろう。

本来は老人が子供を集め、自らの家なぞで”部族の知恵”として親から離れた環境でそうした物語を”垣間見せ”恐がらせてその本質を伝えたのであろうし、そうしたことはここ日本では”恐い話”という形を取ったようにも思う。

だから白雪姫や赤頭巾の結末に、ある意味四谷怪談の底なしの不気味さと同じ感触を持つのであろう。

さてそうした底なし性を持つテーマに”人魚”がある。人魚というものは腰から上が人間と見まごう形をし、腰からしたが魚、といういわば原初の生命を感じさせるなまなましさをもった形を持つ存在であるが、それは魂をもたない不死、あるいは大変長命な存在でもある。

海に住む、というものはどこの海ででも”出会う可能性があり”、上がどちらかというと”身近な人間”である感じがして会話なぞも普通に出来そうであり、そして”魔力”の匂いが薄く、単に”海の民”という感じがする。

そういう意味ではハーピースフィンクス、ラミア、といった融合型の幻獣よりは弱そうでもある。そもそも幻獣、というカテゴリーではなく、妖精系の存在なのかもしれない。

その肉を食べたものは不老不死を得るということであるし、人魚姫、にしろ小川未明”赤い蝋燭と人魚”なぞにしても、人とのかかわりで人魚はどうしても存在に絡めた展開となってしまう。
(そも”肉を食べる”という時点で半分カニバリズム的忌諱感がにじみ出るわけである)

赤い蝋燭と人魚

赤い蝋燭と人魚

人魚姫では人に恋をした末の姫を助けるため、姉たちは王子殺しを示唆するし、小川未明の話では人魚を育てる気立てのよかった老婆は金に目がくらみ、そのせいで町自体が消滅するのである。

いずれにしても救いがないようで、しかし深く心に残るのである。
いわば悲劇を刻印される存在といえるだろう。

そうした悲劇性はしかし”大衆の時間つぶし”にはハードコアすぎるかもしれない。”時間をただ消費したい”時にシビアな”生と死”を考えたくはない、という人は多いのだろう。
(極たまに、そのことを”考える”ことこと最高の幸せであると称する池田晶子さんのような魂は存在するが)

しかしそのことを”毒”として抜いてしまうと、いわば”気の抜けたビール”となってしまうような気がする。いくら咬み応えが安全でも。

そうした悲劇性を感じさせないのが武井武雄の”人魚姫”。
原初の母性と人魚を組み合わせた例であろう。なにはほっとするものがある。”童画の王”武井の真骨頂かもしれない。


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えー、魂を持つのが人間が人間たる理由とすれば、武将の魂が”転生”することをキイワードとする清洲城武将隊桜華組

これほど人間を深く掘り込んだ武将隊はあまりないと思う。

こんなに書くと関係者みたいですが、そうではありません。
下記、公式ブログです。

http://ameblo.jp/oukagumi2012/