大震災後によく聞く言葉として、”自粛”と”がんばろう”がある。
今個人的にこの言葉を聞くと、本来ある言葉の意味と、それ以外の薫燻した意味の両方を感じる。
詩とは言葉本来の意味を煮詰め、浮かび上がらせ、救い出す作業だろう。本来の詩のなかにいる言葉たちは、だから素っ裸だ。言葉の芯といってもいい。純粋にして強靭。光り輝く思いがする。
アンドレ・ブルトンは、”超現実主義批判”で、詩のそうした働きが優れたものである、とし、なんと文豪ドストエフスキーの文章を”小説の陳腐な表現の例”として挙げ、小説をくだらないものとする。極端、だが言いたいことはわかる。
そして今の時代、詩が省みられず、小説がもてはやされることの意味を考えるときの支点、としても有効かもしれない。”人は他人の言葉を聴く意思、余裕、度量は無い。自ら言葉を発することが重要なのだ。”
その裏にあるもの。
それは自分こそが最も尊い。自分が全てだ
という思い。隠されている場合もあるが、それだ。そこに無いのは連帯感。世界霊魂や自らがその中の一部である、というような思いがあった時代にはなかったものだ。それがいい、悪いは別にして、そういうことになっている。
話がずれた。
詩の中では純粋な姿を見せる”言葉”も使われるうちに衣を纏う。本来の言葉が持つ意味とはある意味違った衣もある。社会的な意味とでもいったものが。それが纏わりつくと、言葉はある意味”穢れる”。
言葉が本来持つ純粋な意味を殺したり、捻じ曲げたりする場合がある。このあたりを指摘したのが、ソクラテスだろう。言葉の本来の意味を、ともすれば忘れてしまう意味を指し示す。ほら、そこに言葉の真の意味が。
産婆術に通じる指摘だろう。イデアとも通じる考えだろう。そこには真実を知らず知らず、あるいは我田引水的に、捻じ曲げる人間の”社会”というものの批判、そのありかたへの糾弾も、またあるように思う。
自粛。言葉の本来の意味は、自らのあり方を自らで真摯に見つめ、その最適の動作として動かないことを選択することをいうのだろう。そこには”意思”がある。自らの”思い”がある。自ら選択した動作への矜持が見え隠れする。
だから死者や苦労する同胞の思いを魂が感じ、動けない、のはちょっと違うのかもしれない。これは恐れや畏れ、懼れであろう。意思、というよりは本能的なもの、あるいは、本来の意味での”道徳”といったものからくる本能的な反応だ。
これは言葉を穢す、とまでは言えない動きだろう。しかし、本来の”自粛”とは微妙なずれがあるように思う。
そして、もう一つ、”他人の、他者の、他社の垂れ込み、風評、そねみ”が面倒だからやらない、あるいは社内にやらないように指示する”。この”自粛”がある。
今いろいろ批判されるのはこれだ。そこにあるのは徹頭徹尾自己保身。保身からうまれ、会社から指示される場合は一次的な意志さえも無いのだ(結局従うというところに2次的な意思は生じるが)。
そこには被災地へのまなざしはない。そして、人はそれが”なんだかしらないが”気持ち悪いので、”自粛”を批判する思いがこころに芽生えるのだ。
なんかもやもやする。自己保身での自粛をする自分がなんだか悪いことをしているように”魂が言っている”。かつて池田晶子さんがおっしゃった、売春をする女子高生に言う言葉、”だれにも悪くないがあんたの魂にわるい”。それと同義としての”魂に訊け”である(あ、これは”悪妻に訊け”と”魂とは”という2つの池田さんの著作名のハイブリッドだな←とひとりヨロコブ)。
それだ、それがこの”言葉に本来の意味以外の汚れがつく現象”のややこしいところだ。そこを真正面に把握し、対処すべきだ。
そうすれば、自ら”自粛”すべきかどうか(ここで自粛に”自ら”が付くところが薫蒸していることを示す)がわかる。自らを律する動きが出来る。自粛すべき、と人に言われたときは要注意だ。本来の意味での自粛、を感じたときやるべきことは自ずから見えてくるはずだ。
そして”ガンバロー”も同じ。センシティブになられている東北の被災地の皆さんは、東北人らしい遠慮深さでこうおっしゃっている。”ガンバローガンバローといわれるのは正直疲れた”。
あるいは、”あたたかいへやでぬくぬくとガンバローというな”
これは自分のためにガンバローと言っている人間への批判だろう。そうではないガンバローとは何か。こころが寄り添った言葉とはなんだろうか。こうして偉そうに言うことは自らどうなのか。自分の薫蒸、にも意識的であるべきであるという自戒も込めつつ、考えてゆきたい。
そう、”魂”に訊きながら。
”論理、論理といいますが、論理がずれると明らかに変な感じがしますね。そういう感じの方こそ大事と思います。論理がそこから出てくるところの原論理の感覚、それを私は「思考感覚」と名づけているんですが、そういうものに私はリアリティを覚えます。自分が考えている気配というか、考えている感じというものが、私にとっては五感以上に肉感的ですね。”
池田晶子 「魂を考える」 法蔵館刊 1999年 P.218
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