と題する文を書くとバックアップ失敗で消えてしまった。
やはり題材が題材であるからか(苦笑)。
面倒なので、POINTのみ思い出して書いておく。
現代人の祈り、P,12-15で内田樹氏が橋下大阪府知事を評し、
問題を非常にシンプルな枠組みに書き換える天才である。つまり政治とは金の分配の問題、としたこと。
そしてやったのは誰が無駄な金をつかっているか=だれをいじめるか。
これは正義や公平に実現を、誰を罰するか、という攻撃的な文脈でのみ語ろうとしており、危険な手法である。
これは実は学校のいじめの問題と同一である。すべては人々の不幸から受益している邪悪な存在がもたらしており、それを興奮した口調で呪文のようにとなえ悪いのはあいつだ、と名指し集中的に攻撃を加える。
ひとは実は問題はそれほど単純ではなく、結局全員が被害者で受益者である事を知っているが、自分の仕事を増やす提言は出来るだけ回避したいので、そんなパッとしない話には耳を貸さない。
以上の考え方が非常に刺さったのは、名古屋市の議員報酬半減問題
との類似である。河村市長は橋下氏を同志とし、手法は基本同じである。議員は1400万円も貰っている。自分は800万円(明確ではありませんが)だかにした。お前らも当然やれ。
わかりやすい。議員より有権者が偉いという全能感も得られる。
だがそうした単純化の高揚感と仕組みを冷静に知った上で考えることは必要だろう。
しかし、議員とは有権者の主な反応を体感するのに長けた人たちであるはずだ。こうなれば自ら半減を受け入れ、しかし問題はそれほど単純ではない、ということを伝える必要があるのかもしれない。
直感的には700万円では生活で手一杯、という風に思っているだろうが、それをいったらそれ以下の有権者からそっぽを向かれる。
苦しいな、どうすればいいのか、というところだろう。
報酬が少なくてもやるガッツがある人たちなのかどうか、そんな視点で議員が見られている。主張はわかった、でも本音はどうなのか?
一人で半減OKと言っても、他の議員との歩調合せもあるだろう。
人はそのような視点でいま政治を見ている。