主な楽しみは最近は読書欄である。
文化欄での美術関連、映画情報、すべてではないが連載小説も読む。あ、人生相談は楽しみだ。
幼少時、実家では朝日を購読、子供心にどうにも説教臭い、と思っていた。
新聞とはそういうものだ、という認識を得、読みたい記事のみを瞬時に選び、読みたくない記事をスルーする力が付いた。
いつのころからか、読者投稿欄がどうにも読めなくなった。
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子供のころはTV視聴の絶対時間が1時間と決まっており、その時間にどの番組を視聴するはとても重要な選択事項であった。日々頭を悩ませていた。結構楽しく、悩んだ。
主体的、選択の経験。
自己の嗜好もあり、自然にアニメか特撮となる。たまに動物関係のドキュメント。全く問題がなかった。1時間の内容を食い入るように見つめ記憶する。まあ、ほとんど友人との情報共有はできなかった。
つまり、世間一般情報とのつながりは、TVではなく新聞であったのだ。
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ここのところは讀賣だ。
読書欄は正直朝日のほうがすこしいいのだが、讀賣も悪くはない。
評者が良い。一時期の小泉今日子は気に入っていた。
そして、”時の余白に”。
編集委員の芥川喜好氏による、美術界周辺をめぐるエッセイ。
丹阿弥丹波子氏の端正な銅版画が配される。これはメゾチントだろうか。
闇から浮かび上がるメゾチントの手法が、美術、ということばのはらむ沈潜性に合っている。
月一度の掲載であったが、掲載されているのを見つけるとすこし心がときめく。
池田晶子さんを取り上げられることもあった。
まあ、だから、というか、さらに、というか、好意を持ったわけだが。
2006年の4月からの月一掲載。
2020年4月25日にて連載が終了した。芥川氏はこの秋で72歳になられるという。
新聞社での勤務形態は把握していないが、やはり特別な待遇ではあったろう。
いつも頭の片隅にあったのは哲学者内山節氏の言葉でした。
ごく普通の人々が歴史の主人公になっていく思想をつくり出したいと考えてきた氏は、たとえば山村に生まれ、そこで畑を耕して一生を終わる老人の穏やかな表情を見ながら、「このおじいさんの世界を理解できなければ、自分の哲学は人間の持っている何かが分からないままに終わってしまうのではないか」と考えるのです。
時の余白に 2020年4月25日 讀賣新聞 ”去るもの、めぐるもの”
思い出すのは、池田晶子さんのことば。池田さんもまた、哲学とは市井の老人のなかに、”哲学史”ではなくまさに”哲学”としてあるものだ、とおっしゃっていた。
掲載初期のものが、みすず書房からまとめられて本になっている。
世にコレクションと呼ばれるものがあり、コレクターと呼ばれる人がいます。趣味として、性癖として、時に使命として、能動的に物を集める世界です。集まってくる物は、おのずとそこに一人の人間を浮かび上がらせます。集まった物たちが、それを集めた人間を語る。人間の側からすれば、集まった物たちに自分を語らせるーつまり「自己表現」の手段というわけでしょう。
昭和の民芸運動を主導した柳宗悦は言っています。「集めるものは、物の中に〈他の自分〉を見いだしているのである。集まる品はそれぞれに自分の兄弟なのである。血縁の者がここで邂逅するのである」と。
時の余白に 芥川喜好 みずず書房 P.7 ”共生を語る物たち”
今までの私は、”いつか自己表現のための糧として、物を積極貪欲に吸収しよう”という意識で様々なものを、愉しく、集めてきた。
それはいまでもそうなのだが、最近は”ぼちぼちきちんとアウトプットすべきでは?”と感じることも多くなった。
では、コレクト行為は終了すべきなのか。
うーん、そうではない。従来は物を中心に集めてきたが、この時代、情報を、映像情報含め、集め共有することが、人間間の意識レベルで(つまり海外を含め世界へ)できるようになった。
そこに、”テイスト”を提示することができる。集めておかねば散逸するかも、といった“使命感”もある。
そうした”集めるときの想い”が情報とともに伝わったように思えるときの、喜びもまた、ある。
これは果たして、”コレクトすることによるクリエイト”になるのだろうか。つながるのだろうか。
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芥川氏のエッセイがこれから読めなくなる喪失感はある。が、しかし、氏がその長い美術記者(魅力的な職業である)生活で残された仕事、その紡がれた言葉を足掛かりに、
例えば私のコレクト行為がまた、一つのクリエイトとして意識されたりもする。
氏は連載の最後のタイトルを、"去るもの、めぐるもの”とされた。
めぐりくる、桜の季節、
“今年も桜を見ることができた”の喜び。
”来年の桜は見ることができないのではないか”の不安。
”私が、見るのか。誰が、見るのか”の彼我逆転。
”私が見る、世界が見る、桜が、私と世界を、見る”の”一”感。
この”わたし”もまた、めぐるものであることを
伝えていただいた、気がしている。