ケン・ウィルバー「エデンから」を読んでいる。
備忘的に気になった箇所を抜き書きする。
拙著『アートマン・プロジェクト』において宗教的体験は大きくいって三種類の段階から成る、とのべた。各段階にはそれなりの手法や道があり、それぞれの視野や経験が存在するのであった。最下位にあるのはニルマナカヤであり、これは一般的にはクンダリーニ・ヨガとして知られている。身体的・性的エネルギーを昇華させてサハスララといわれる頭頂まで昇らせようとする。意識を最下部から体の最上位まで高めようとする。その次の段階はサンボガカヤで、頭頂をこえて意識を天にまで高めようとする。第三の段階としてダルマカヤの世界があり、ここでは意識は究極の根源、つまり神と人との融合点にまで達している。ここには客体と主体といった二重性は永久に消滅しており、絶対のアートマンがあらゆるものを統合している。
(P.98)
アインシュタインは次のようにいう。
われわれが経験できる至高の情感は神秘的なものだ。それはあらゆる芸術や科学の母である。この情感にふれ得ない者は・・・死んだも同然である。最高の知性と輝かしい美というものが本当に存在し、人間の限られた能力をもってしてはその片鱗しかうかがい知ることができないということを理解することーそうした理解や感覚が真の宗教の中核である。この意味で、しかもこの意味でのみ私はきわめて信心深い人間なのだ。
(P.17)
実証主義を超えて
神なるものから離れて生きながらえることはできない。万物の存在の源から分離されて永続するものはない。個人や国家の業績をならべたてるという歴史ではなく、人の意識をたどる歴史は神と人との愛情物語である。愛し合い時には憎み合いながら、不即不離のなかで人の心と神なるものは梵天のなかを踊る。
(P.13)
”いのち根性”がなく、あら、わかっちゃった、あとは死後だ、生きながら死んでいる、とおっしゃった池田晶子さんだが、
2007年2月23日に亡くなられる前、1月27日に製薬会社主催、医療者向けセミナーでの講演を予定されていた。前週末のサイン会を輸血で乗り越え、入院は講演が終わってからと準備されていたという。
自宅では酸素を吸入しつつ仕事をされていたが、同25日に呼吸が深刻になり、やむなく講演内容を口述し届けられたという。
その講演内容の最後の段、”謎の自覚”と題された部分を読んでみる。
たとえば、普通我々はあまり気にしないで、私が死んだら、という言い方もしますけれども、この場合、時間というものを前提にしているわけです。でもその時間とは何かと考えると、またこれも難しい問題が出てきて、過去も未来も現在も観念だということがよくわかってきます。
現在というのも、これは何かというと、これもちょっと妙なんですけれども、自分なんですね。自分ということの意味が大きく変わってきます。時間のうちに存在する自分ではない、肉体ではないところの自分という意味になります。現在ということなら、宇宙は現在に存在しているわけですから、宇宙は自分です。(中略)考えていくことで謎は宇宙大に広がるものですから、つまり、自分というのは謎そのものなんだということが、必ず知られるはずですから、答えなんかあるわけないのです。
(P.242-243 池田晶子 「死とはなにか」)
ここで池田さんは、”謎”ということばを使われた。
これはこの日本という国で一般に働いている人々に伝えるべく、工夫された表現であったろう。謎を哲学された池田さんであり、真実をその口を使って述べる巫女を自負された池田さんならではの、やさしさであろう。
ケン・ウィルバーなら、ここでは”神”あるいは”アートマン”といったやもしれぬ。だが、神、といわれたときの我々の戸惑いはどうだ。
だが、現在は永遠であり、自分はなく、自分は謎であり宇宙(の一部)である、ということ、これこそが真実であり、池田さんがこの最後のご講演で伝えたかったことであろう。
続けて池田さんはおっしゃる。
こんなふうに、いままで考えてきたように、生死とは何かということを正確に考えていくと、生死ということを超えてしまって、この言い方が伝わるかどうかわからないのですが、存在するということ、そのもの、になっていきます。生死を超えた存在、というものに近づいていくことになります。
(同P.243)
本講演は、医療者に向けてのものである。実際に死にゆく存在としての人間、に直接関わるひとたちへのことばである。
目の前での事象に覆いかぶさられ、苦慮するであろうときのことを考え、池田さんは続ける。
論理というのは、あらかじめ何か決まったことでは決してなくて、いかに行為すべきかということは、その都度、その場で、各人で判断して、引き受けることでしかあり得ないはずです。これが人間が宇宙におかれた状況のいちばん正確なところですから。何か外的な論理をつくりあげて、そこに頼ってしまうというのは、本末顚倒のことに必ずなります。
(同P.244)
その重さを引き受けることの重大さを考えると、医療者はその場で外的な論理に頼りたくなるはずだ。自らの判断が後で”論理的に”問題になるかもしれない。だれか、どこかが決めてくれないと。そんな気持ちにかならずなるだろう。だが、それは思考停止でああり、仕方がないがしかし”卑怯な逃げ”であるのだ。
だから池田さんは最後にこうおっしゃる。
各人が、この謎、存在の謎の構造を自覚することで、自覚し続けていくこと。そのことがすべてだと思います。
(同P.244)
謎を自覚する。
すなわち、永遠を自覚する。
ちょっと難しかったかもしれませんが、以上です。
この講演原稿、もしかすると耳をそばだてる読者への、最後の直接的な池田さんのメッセージかもしれない。
だがわかる。
宇宙である池田さんが、現在にあり宇宙である意識と共にあることが。