夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

伝えたいこと。

聖書では、”光あれ”。

では、池田晶子さんが初めて世に問うた言葉とは、なんであったのか。

”最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論”の冒頭を紐解くとこうある。

「何が思索を命じるか」とハイデガーが問うたとき、二千年の「忘却」の歴史を超えて、初期ギリシャの哲人たちが、そこに蘇った。そして、「死霊」七章の補遺「《最後の審判》に添えて」において埴谷は言う。二十世紀の三輪家の兄弟の負った課題を少数の読者は感じてくれるであろう。そしてその少数の読者の最後の読者は、「存在」そのもののはずである、と。
(P.7)

以降の数々の著作をまさに預言するがごとき言葉である。”何が思索を命じるか。”

ある政治家の言葉を聴く機会があった。僕は基本的には政治家の言葉を聴く習慣はないのであるが、学校での講演会であったことから、著名な政治家をひとりの講演者、というカテゴリーで見に行った、というような整理となるだろうか。

政治家も大変だ、というのが感想だった。やはり人は政治家に”今日の喰う寝る遊ぶを保証するのがあんたらの仕事だ”というようなスタンスで迫ることが大多数であり、それに対し”有権者様”として、様付きで傅かざるを得ない、という政治家自身の自己保存本能がどうしても働くものかは、という印象を持った。

これは池田さんもおっしゃっていたが、年金や消費税の話になるとどうしても”自らの”年金をどうしてくれる、金をくれ、という話になってさもしくなってしまう。税金なぞは国にくれてやるものだと思い、幾ら払っていようが気にしたことはない、という池田さんのスタンスこそ、自らをさもしくなくし、そもそも無駄な時間を過ごすことをブロックする考え方であるなあ、とひざをたたきつつ(どちらかというと脳内のひざですが)池田ファンにより深くなっていったことなどを久しぶりに思い出した。

生きているなら死ぬまでいきるしかない、ということ、税金だ消費税だと騒ぐのはさもしい、というと、外部からはお大尽ですなあ、という反応を受けるものなのかなあ、と思っているが、実は個人的にはあまり受けたことがない(というかそういう話をしたことがない)。人の悪口をいうと、”だれに悪いのではない、てめえの魂にわるいんだ!”(そんなにべらんめえ調ではなかったと思うが、まあ印象では)と援助交際について喝破されたのと同じことを池田さんはおっしゃるだろうと理解しているが、”食うために生きる”こと、これが下品であり、大いに差別したい、というスタンスはなんとすっきりしていたことであろうか。改めてそんなことを(政治家のコメントを聞いて)つらつら感じた。

政治家は理想を語ろうとしていた、と思う。だがなかなかそうはさせてもらえない、という。

しかし、あまりの教育のとほほ加減に、”文部大臣になる”と池田さんは(たぶん半分くらい本気で)おっしゃっていたが、これは議員になる、という要素はたぶん1%もないのだと思う。教育が大事だ!!という思いが、たぶん99%以上だと思う。で、もし本当に、池田さんがなろうとされたのなら、どうだろうか、僕は激しく応援し、なんと政治の世界に縁があったかもしれないなあ。

新聞の政治欄は基本的に飛ばすところ、であるこんな僕ではあるが、やはり政治って、好きな人の人気投票の枠をあまり出ないのかもしれない。

まあしかし、聖書における白鳥の歌の第一声っていうんですか(ちょっと口真似)、この”光あれ”というのは、実はすごく深いことばであるような気が最近している。どこをどのように考えても、あの宇宙、この宇宙、はじめを上手く考えることはできない。科学の底がぬけるところである。なにかが「初めて」できるとき、「どこに」できるのか。そこは無であるべきだが、「無」は「無」だから「無」なのだし・・・。

それこそは無限と精神と現実が渾然一体となった終わり的始まりの場所である、と思う。宇宙を感じるときには漏れなくついてくるこの思い。

これこそが池田さんの宇宙好き、の理由だったろう、と僕は勝手に解釈している。無限とはほら空を見上げれば、すぐそこに。

そんなこんなで地球を見ている、宇宙空間に浮かんでいる魂的(象徴性アストラル的?(笑))精神。これが池田晶子というひとだ。そんな風に思っていた。ちょっと地球人から離れているひと。

池田さんが埴谷さんに呈した究極の賛辞は”宇宙人”。でもこちらから見るとどちらも宇宙人だった。宇宙人類、といってもいいかもしれないが、とにかくその精神の広がりは宇宙の広がりとニアリーイコール、であった。

ニアリーは、宇宙よりちょっと小さい方向ではなく、どちらかというと大きい方向で!

すごいことである。

・・・2人、おんなじ顔で笑ってますね。