夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

科学ではない宇宙のヒッグス粒子。

池田晶子さんを読んで、大きく自身の変化を受けたことの一つに、”科学教”の認識があった。
(他に、”時間教”や”ドクサ教”、”マスコミ覗き教”等いろいろあるが)

ドクサ教やマスコミ覗き教なぞは、ボンヤリと自身の中に意識していたものを形にしていただいたといった感もあったが、この”科学”教、すっかり骨の髄まで染み込んでいた。

基本的に科学で全てが”既に判っている”ものだという思い込みである。新種の虫が発見されたと聞けば、科学の網をたまたますり抜けていた稀有の例であると感じ、細かいところはまあおいといて、この世の仕組みは基本科学で全て説明できている、という風に感じていたのだったが、そしてこの感じは人類の基本認識であると思っていたが、どうもそうではないらしい、と池田さんの著書により感じたのだ。

これは自身内コペルニクス的変化とでもいうべきものであり、大げさにいけば足元がガラガラと崩れるような感もあった。だが”あーーーっ、助けてくれー”という感じはあまり無かった。そこは池田大明神というか池田鬼子母神というか?まあ見ていていただけるだろうという安心感が確かにあった。

そこがすごいところなんだが。

・・・・なんのことかといえば、池田さんの宇宙好き、である。ただしあの宇宙ではなく、この宇宙だが。
同じ対象を見ても、片方は有限を見、片方は無限を直感する。むろん池田さんは後者である。しかし、目ではあの宇宙を同じく見ている。しかしどうも第三の目を使って、違う宇宙を覗き込んでもいるようなのだ。

これはいったいなんなのか。

以来、空を見ればそこに不可思議が一杯に広がっていると感じ、生きていることの不可思議を感じる日々となった。


ヒッグス粒子が発見されたという。これはどうもなかなかすごい発見のようだ。宇宙の誕生が語られるレベルのすごさである。すごいんだが、しかし”池田眼”(ナルトみたいですが)で見ればやはりこれもあの宇宙の出来事に過ぎないようだ。

ヒッグス粒子は、やはり”宇宙の始まり、ビッグバン”以降の話のようだ。

僕が知りたい、というか知りたくても判らないだろうと直感しているのは、”では、ビッグバンとはどの空間に起きたことなのですか?始まりということはその前は”無”?でも無と無いことなのだからどうなるのですか?”ということである。

この問いは底が抜けている。たぶん結構皆その底抜けを”知っている”が、考えないようにしているに違いない。

そこの考えても仕方がないことを考えてしまうこと、これこそが”哲学”あるいは”考える”である。そう池田さんは教えてくれた。

そこには科学はない。宗教もすこしかすっているかもしれないが厳しいところだ。不可思議があると知っている、無知の知、ということである。ソクラテス、なのだ。


そういう意味での”思い込み”の怖さと味気なさ、というものを逆に骨の髄まで染み込まされた。

網野善彦”日本の歴史をよみなおす”を読んでいるが、そこでも思い込みをひっくり返す言葉が多々あった。

百姓とは農民のことにあらず。百の姓、そのものずばりさまざまな職業を示すものだ。土地をベースに、農民をベースに政治をコントロールしようという意思、そこには”便利”、”そういうことにしておけば楽、得”という思いが薫染している。

歴史というものは、国によって、立場によって、さまざまに語られるものである。どれが正しいか、というのは、結構判らない。そうしておいたほうが”政治的に”いいから、ということで作り上げた面があり、それがぶつかりあうときはそれはもう真実はどこにもない。

しかし、”過去の事実”はあり、それが今のわれわれにわかるかわからないかだけである。

そのことを暴いてみせてくれる書。一読の価値はあるだろう。

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)