夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

夏季休暇。

早朝から、暑い。

あついと、頭が、ほとんど働かない。早朝でさえ、そうだ。

そんなときは、夏休みにピッタリな娯楽映画でも見るか、ということで、
録画しておいた映画、”タイタンの戦い”を見た。

基本的には、事前情報なし。主演俳優のことや、後付で3D化したこと、1981年に先行する作品が在る事、等は一切知らずに、見た。

また、ギリシャ神話の知識も正確ではなかった。ばくっとしたところはあるが。

総じて、楽しく見た。先行作品があり、そのリメイクとして誕生しているので、タイトルは”タイタンの戦い”となっているが、オリンポス神族の父親の世代となるタイタン(ティターン)神族との戦いではなかったのが、少し残念であった。ティターン神族のことを正面から扱った映画、というものがあるのかどうか、寡聞にして聞かない。単純に、権力争いと理解しているが、王族であれば、親族間で覇権を争うことは勿論あるだろう。

そしてそこに、両方の母親としてのガイア、グレートマザーとしてのガイア、地球にも擬されるガイアが関係するところが、かねてから大変面白い、と思っていたのであるが、そのあたりを追究する話ではなかった。

古い物語であるから、いろいろな説が入り乱れていることは仕方がないのだが、ギリシャ神話を紐解いたとき、少しく不満であるのは、たとえば(うろ覚えだが)半神であるヘラクレスが、様々な冒険をするときの、その相手の怪物といわれるものは、元を正せば神から生まれいでしものが多いのである。人型ではないにしろ、神と神との間に生まれたものである。そのことを言わずにただ”怪物”と述べられ、倒される。

これは映画でも出てきたのだが、神(ポセイドン)に犯され、あげくに怪物に仕立てられたあわれなメデューサにも同様のことを感じる。怪物にされたことで殺戮のことしか頭にないようにされているのかもしれないが、そうした経緯を考えれば、”怪物”と見なし、退治する、という発想の無残さを思う。

知らないことの、無垢であるということを意識した上での、罪。

ギリシャ神話を紐解く時のそこはかとない不快感はそんなところから来ている。徹底的に勝者の側の論理なのだ。当たり前かもしれない、勝者が敗者を立てることはない。しかし、メデューサの哀れさを知れば、それは本来は人間をそのように仕向けた神への怒りとなるのではないか。

問答無用の自然を擬した存在である神の、理不尽さを思うという意味でも、ギリシャ神話はまたこの消化不良感こそが味わいどころなのかもしれない。

そういえば、この映画を見て思い出したが、日本語表記としてギリシャギリシアか、ということが過去どこかで問題とされていた記憶がある。外国語を日本語表記にするときの問題、そこには微妙な時代の嗜好や、音の問題(TINTINをチンチンとするか、タンタンとするか。バセロン・コンスタンチンが知らぬ間にコンスタンタンになっていたりとか)があることなども同時に思いだした。
なんとなく、縁が薄い言語の表記は難しい。伊丹十三であれば、ジャガーではなく、ジャギュアだ、となるのだろうが。

タイタンの戦い [DVD]

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オリジナルな要素、ジンの渋さや、サソリが従順に乗り物になってくれること(象に模した牙の装飾等、ジンの趣味が感じられて大変よかった)、クラーケンに顔があったこと(これはゴジラにでた敵役怪獣・オルガを彷彿させますね)、黒いペガサス、などは楽しく見ることができた。オリジナルとの違いに目くじらをたてることがなくば、B級映画としては結構楽しめるほうではないだろうか。
(というか、ただでTVで見ているので、文句をいうのは申し訳ない)

今度は機会があれば1981年版を見てみることとしたい。