夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

神話は、理解しがたい自然の事象に対し、それと人間の世界とを調停する手段である。

神話は、理解しがたい自然の事象に対し、それと人間の世界とを調停する手段である。
レヴィ=ストロース

事象だけでみると、例えば星座を神話の英雄にたとえたり、なんとも人間的な嫉妬や心の惑いに溢れたギリシャの精神が生んだ神話群は、どこか子供の私には幼稚に見えていた。

だが精神と星と存在の関係を今一度考えてみれば、星を神話にたとえる心が、単に馬鹿にすべきものとは思えなくなってくる。

神、というものが清廉潔白である、という幼児期の刷り込みがどうやらあったので、嫉妬でゼウスが襲う人間の娘たちを怪物に変え続けるヘラ(そもそも神にとっては人間は別種の存在であるからして)のその行為は単にヘラの嫉妬を表現しようとするあまりであり、それはそれでありではないか、とも思えてくる。

そこで冒頭のレヴィ=ストロースの慧眼だ。そうか、この世界の不思議のかずかずを、神話という枠で表現しようとする当時のギリシャの人々の心は、科学こそが万能である、との信仰心(池田晶子さんは科学教、ともおっしゃった)としてのいまのスタンダードなわれわれの心境と、実はあんまりかわらないのだ。

今のギリシャになぜソクラテスプラトン級の哲人が発生しないのか。長く不思議に思ってきた。だがどうやらいまのギリシャの人々と、昔のギリシャの人々は、人種的にも違っているという。いや、子孫なのかもしれない。だが長い歴史の中で、ソクラテスやらプラトンやらが発生したような精神空間が長くギリシャに存在した、ということはなかったようだ。

文化は偏在する。文化は伝播する。文化は変化する。文化はそして消滅する。

だが言葉と書籍、というものがありがたいのは、個人の中に突然変異的に発生した珠玉の思いの数々が、凡百の書物の中に紛れてあることだ。

だから池田晶子さんはおっしゃったのだ。「古典を読みなさい」と。

歳月によって、良書は確実に残る。いや、いろいろな要素があり、良書が全部のこるわけではない。だが、結果として残っているものたち一つ一つには、残る理由がそれぞれある。

その理由を考え、それが我が身の助けになる、と思うのならば、読むべきだろう。

チンパンジーと人間は、大きくは同じ種類である、と昨日書いた。つまりは、チワワとグレートデン位の違いか。この2種は脳髄は変わらないかもしれないが、大きさは大きくちがう。チンパンジーと人間も、いろいろな要素が違っている。

だが、言葉と書籍により、人類は種としてその他の動物とは違うステージには居ると思う。この「ステージ」、だれかが設定したわけではない。単なる事実としてのステージなのだが。

(神話、が最近面白いです。)