徹頭徹尾、私は自由なのだ。本質的に、自由に考えることが出来るし、無理せず自然に、そうなのだ。
だが時に、自由とはラクチンであることと同意ではない。
そこもわかっている。
でも「自由に」わかっていれば、ラクチンでないが、でも自由であることは「心がラクチン」であるのである。
池田晶子さんが、もし自分の子供をもったら伝えたいこととしておっしゃっていたこと。
「思い込みに囚われず、完全自由でありなさい」
そういうことをおっしゃっていた。おっしゃっていた本を今は参照していないのだが、そういった意味のことをおっしゃり、
私は池田さんの子供ではないが読者であり、池田教の教祖には決してならぬ、とおっしゃっていた池田さんの心を私なりに理解しているつもりのいわば「心の弟子」であるので、
池田さんからのメッセージとして記憶している。
だが、その言葉を聞いて(読んで)、すぐに思い込みから完全自由になったわけではない。
今も勿論囚われているし、将来も、基本「あたらしいことには囚われる」。
だが、現実や、どうにもならない、と思う心や諦めや冷笑や常識、といった、いわば「エゴの罠」が存在することはうすらぼんやりとではあるが、感じている。
敵の存在をしっていることは、私的には結構進歩なのだ。
この世は3段階で進歩する、という。1歩目は隷属。2歩目は支配。3歩目こそ愛による生。動物的社会は、天与の、という意味ではたまたまの「天才」としての、親ガチャならぬ「自分ガチャ」による身体や頭脳や境遇という条件が良かったものが、「たまたま」群れを「支配」する。
だが「ボス」は基本おとろえると「代替わらされる」。
そうなるとボスが本当に「幸せ」なのかは微妙であろう。
ボス猿よりも、メス猿社会の頂点である「女帝」こそが、まあまあ長期で幸せかもしれない。北条政子のように。
そこにあるのは、奴隷とご主人さま、だ、あのソクラテス、プラトンを生んだギリシャ社会にしても、都市どおしのつばぜり合いがあの「緊張した精神」を生み出し、バルバロイ、すなわち市民ギリシャ人以外を奴隷として使役することで初めて成立したものだ。
いまのギリシャ人の中になぜソクラテスがいない(いや、いらっしゃるのかもしれませんが)かというと、これは人種というよりは、文化や政治が大きくからんでいた、というのが私の現在の理解である。
だが、「奴隷」はどこまでも不幸である。奴隷がなくなって、支配者と被支配者を生んだ、宗教による統治の時代も、奴隷視点に立って見ればこれは絶大な進歩である。
だが宗教による支配は、その頂点に立つものが身を維持したい、という思いをも生んだ。権勢、権力、財力、といった言葉で語られる「身」である。そこはいかんともしがたい。勿論そうではない「君主」もいたであろう。だが世襲、わが子、家、といった要素を考えると、王制、君主制、領主制を見れば感じるのは、「保身」の一言だ。
多くの変化、科学の変化や世界大戦、WEBによる世界の統一(これは既にそのステージにいるだろう、実感はないが、後世からはたぶんそうみられる)といったステップを経て、いまは宗教も奴隷制もない、まだ戦争はあるが、そういう時代にまがりなりにも突入した。
そこでは宗教は基本、必須ではない。個人が、もしそうしたければ選び取るものとなった。そしてそうなったことを私はいいことだと思う。
日本という国は宗教のしばりが緩やかだとおもう。すくなくとも私が見聞きする海外と比べて。
これはもしかすると「大乗仏教」が効果をあらわしているのかもしれないと思う。つまりは「山川草木悉皆成仏」の世界観だ。
そこでは山も、川も、草も、木も、すべて仏になる途上、「菩薩」状態である。生き物、とみなされないもののなかにも「仏性」を見て、感じるのである。草木がそうであれば、動物もそうであろう。動物の1種である人間もそう。
つまり私もあなたも世界もすべてが「成仏」する。つまり今は菩薩である。
この思想にどっぷりつかっていなくとも、積極的に採用していなくとも、なんとなくそういうようなことを聞いたかもね、というのが「日本社会」だ。
これである。
このぼんやりした、なんとなく「先は成仏」観、これがちょっといいのではにだろうか、と思っている。
これは例えば中世キリスト教時代にいって唱えれば即「異端」で「下手すりゃ火あぶり」である。自身のなかに仏となる要素がある、と思うことこそ、中世でいう「異端=人間3分割説」の「人間の中に神的要素がある」と親和性が高いからだ。
それがなんとなくうすらぼんやりとまあ、そういう考えもあるわなあ、といった緩さでただ知られている。
この緩さもまたいい。別に強制ではないからだ。
奴隷、支配ときて第3段階は愛。
愛というとなんだかこっぱずかしい文字であるが別に、この腕時計への愛、でもいいのだ(笑)。
そういう意味では、世界は一歩すすんで二歩下がってはいるが(戦争などもまだまだあるが)、すこしずつは、進んでいる、と思っている。
(そう思いたい、という面もあるかもですが。。)