夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

言葉。

はてさて。

”益体も無い”ということばがある。あまり口に出していうことはないが、どうしようもない、といった意味だと思っている。

ユリイカ!”という言葉もある。エウレカ!という場合もあるようだが、有名な雑誌のタイトルにも使われていることからも、子供時分の僕は、”蛍烏賊”などを想起し、”まあちがうんだろうがイカの種類みたいな言葉だ”なんて思っていた。

つげ義春の”ねじ式”だったか(ちょっと記憶に自信ありませんが)、翌月の内容予告で”xxクラゲ”と書いた文字が”メメクラゲ”と誤植され(xxの部分は未定、というつもりだったと思う)、そのまま意味不明にも掲載され、その言葉の異様な語感が妙に”人口に膾炙”し、のちに”メノクラゲ”としてポケモンの1種類にもとりあげられたりした。

ポケモン好きの子供の一部が、どこかの時点でつげ義春を読んだ時に”あれ?”と”エウレカ”させる文化トラップの一つだと理解している。同じしかけに”ユリゲラー”から来たユンゲラー”があるが、これはわかりやすすぎて本人から確か訴訟?があり、粋が野暮に変化してしまった残念な文化トラップだと思う。

と、まさに益体ないことを冒頭になぜに書いているのか。

僕は読書の際、2−3冊をカバンに入れて、時間とシチュエーションにあわせ気分で読む。例えばいまだと朝は最近ブログでも紹介している池田晶子”考える人”、昼間はデクラン・カイバート”『ユリシーズ』と我ら”、夜は適当に小説など、と思っているのだが、

『ユリシーズ』と我ら―日常生活の芸術

『ユリシーズ』と我ら―日常生活の芸術

すべての言葉が絶筆です、とおしゃる池田さんの文章が改めていつ読んでも力強く、読み飛ばせず、メモを取る手が止まらない、イキオイ進まない。

いや、進まなくていいんだが。

まあ、”幸せに読み進まない”という状態に陥り、”ユリシーズ”の方がなかなか進まない。そもこちら、表紙でマリリン・モンローが”ユリシーズ”を読んでいる写真のインパクトから読み出したのが動機の95%なので、仕方が無い面があるが。

しかし、又道がそれるが、このマリリン・モンローのアイコンとしての吸引力にはすごいものがある。となんとなく一般論のように書いてしまったが、少なくとも個人的にはそうおもう。そして一般の扱いを見ても、やはりそうなのだと思っている。これは一体なんなんだろう。馬鹿にした口調(これは多分に本能的・生理的な一般反応を馬鹿にしているのだろうが)で”ブロンド”という時の一種別種のイキモノのように言われるときの語感を見ても、そう思う。

(映画”ナイト&デイ”で、キャメロン・ディアスがイタリア人?たちにそう言われているのを聞いてもそう思った。ここは”女”でもいいはずだが、なぜか”ブロンド”なのである。)

えー、言いたかったのは、”言葉”に関してである。ソクラテスが書いたものを残さず、弟子のプラトンが師の死を契機に書き言葉として残してくれて、しかし師なきあと書き出した書の中のソクラテスはもはやプラトンの創造人物としての動きをするわけであり(この人ならこうしただろう、からこの人にこうさせたい、への変化)、まあそれがどうしたのか、というわけですが、ここで”考える人”P.144、プラトンの項で池田さんはこうおっしゃる。

”「書かれた言葉」よりも優れ、かつ力強い言葉、それは、「それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書きこまれる言葉、自分をまもるだけの力をもち、他方、語るべき人々には語り、黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉」だ。”

そんな言葉あるのか!?

それがあれば最強ではないか!!?

それがほしくて、ソクラテスは言葉を遺さなかったのか?


言葉は読む人間の精神状態、体力、時間で、いかようにも読まれてしまう。たしかに危険ではあると思う。そのことにここまで意識的であるのはどういうことなのだろうか。

池田さんも常々ソクラテス同様そう考えていらっしゃったのだろうと思う。”わかる人にしかわからない”というあれだ。
この”言葉”自体も、偉そうだ、とか反発を受けるわけだが、そのことが既に”それを示している。意味なく考えることはその人の”癖(へき)”であり、偉いとか偉くないとかではない単なる区別、どちらかというと”世間的生産性”に欠けるので決して褒められる行為ではありませんよ、といくら池田さんが咬んで含めるようにおっしゃっても、やっぱり”自分もわかりたい”なのである。

これはなんなんだろう、本当に。

そういったことがいやで、後世の人類をものすごく意識していたという意味でものすごく”魂”的であった人が、ソクラテス、という人だったのだろう。

その思いを多とし、そしてそんな師を書く自分の損な役回りをわかっていてやったプラトンという人、この人はまさに”弟子”というものを体現する人である。

こうした”言葉”に対するいわば畏敬の念は、ブログなどという池田さんが決して良き印象を持っていなかった電脳空間にあるツールで、池田さんのことを書く時にどこかにある罪悪感に繋がっており、池田さんと同じ時代の空気を吸ったものとして、池田さんに”勝手に師事(精神的押しかけカバン持ち、ともいう)”する身にとって、レベルもステージも違うが、「決して忘れてはならぬことである」と、肝に銘じている。