夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

魂とはなにか。池田晶子さんや、プラトンや、ユングや井筒俊彦などを想い起こしながら少し考える。

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キンドルプラトンの「パイドン」を購入した。

あ、今朝の体重は65キロ、体脂肪は11%。
昨日は13000歩歩けた。まだまだ暑いが、着替えて歩いたのと、夕方だったこともありそれほど大汗をかいた、という感じではなかった。
熱中症になってから、あまり1万歩にこだわっていなかったが、やはり歩くと、そして夕焼けなぞを見ていると、良い気分転換になるようだ。

いつもとは違う方向(飯田橋あたり)に行ったので、帰りに牛乳を買おうと途上にある最近お気に入りの「まいばすけっと」を検索、家から2番目に近い店に初めて行ってみた。

最寄りの店より若干大型であり、あたりの人が結構買いに来ている。そして品揃えも若干違った。

最近昼食として採用したトップバリュプロテインブロック」160円が売っていないし、同じく粉末スポーツドリンク68円(1リットル用)も売っていない。

店舗が大きいのにだめじゃん、という気になったが(なんとなく客層による選別と感じたが)、最寄り店ではいつも品切れのもやしが2ケースあり(近くにマンションが多いからか)、つい2つ購入した。

あと、99円で「さしみこんにゃく」300gというのがあり、これも買ってみた。あとバナナ。合計544円で、44円はWAON POINTで支払う。すっかりパターンが出来てきたなあ。

キャベツは品切れだった。あとは大阪王将の冷凍餃子50個パックが700円弱であった。これも小型店ではなかなかないかもしれない。今回は買わなかったが、おかずが切れたら買ってもいいかなと思っている。

まいばすけっとはいまいち野菜が弱く、ダイコンはあまり見ない。キャベツは人気商品で売り切れていることが多い。店によって得意不得意があるのだろう。

今日も「閑話休題」。

さて、購入した「パイドン」であるが、魂について、それまであまり示されていなかった「魂」や「輪廻転生」について、ソクラテス刑死直前、という設定でプラトンが書いたもののようだ。

文章を残さなかったソクラテスを、その著書に登場させることで、プラトンは己の意見を縦横無尽に出せる仕組みを手に入れたようだ。当然スタートは記憶するソクラテスの教えを文章にしたのだろうが、たぶん後期になるにつれ、自身の考えが中心になったことだろう。

そのひそみにならわれたのが、我が敬愛する池田晶子さんだ。おなじくソクラテスをご著書に登場させることで、いわば「プラトンに続くソクラテスサーガの語り手=真実の巫女」という立場を創出された。

また池田さんはそのご著書に「魂について」というものもある(アンソロジーだが)。

魂、や輪廻転生、ということは、まずは大変センシティブな話題であると認識している。正面切って語りだせば、「ヤバイ人」認定は免れないであろうし、新興宗教に勧誘するひとか、と思われるのだろう。私も実生活で、誰かとそんな会話をしたことはない。

私はずっとそのスタンスだったが、池田さんの書かれるものを読むにつけ、
「哲学とは答えを出すものではなく、こたえられない問題の下にそっと線をひく態度である」という考え方を知り(内田樹先生からであったか)、なるほど、それを

「生きている間には決してわからないが、考え続けたくなるもの」

として扱う、ということができるのだな、と思った。

そういう意味では、まあ、もともと自分の中で考えるのは自由だが、輪廻や魂のことは「ただ考えるだけでもとりこまれるのではないか、というようなよくわからない不安が起きる」テーマであったのだ、個人的に。

そのあたり、翻訳者の納富先生も解説で書かれている。

神秘主義 mysticism」 を 過剰 に 嫌悪 し 哲学史 から 排除 する 者 は、 この 世界 と 宇宙 が 神秘 に 満ち 溢れ、 私 が ここ に 生き て ある こと それ 自体 が 神秘 で ある という 現実 感覚 を 失っ て いる。
プラトン. パイドン~魂について~ (光文社古典新訳文庫) (Kindle の位置No.3525-3527)

そう、輪廻転生や魂というテーマは、哲学ではなく、異端的な「神秘主義」に絡む問題であり、そも学問である哲学のなかで議論すべき内容ではあるわけがない。

なんとなく私は子供のころからそう思ってきた。そのような偏りを、池田さんは「科学教」であると教えてくださったが。

だが、ではギリシャでも、アリストテレスオルフェウス教の秘儀あたりが出てくるまでは、死ねばそれで終了、魂のことなど誰も考えてはいない、といったものだったという。

最近読んでいる井筒俊彦の「神秘主義」や「意味の彼方へ」などを見ても、あるいは教育のみが日本で強調されるルドルフ・シュタイナー神秘主義的な考えも、あるいは理想世界を至高の人間の高みである、とした(そしてそのことも日本ではあえて隠されているようにみえる)マズローの学説にしても、またたとえば潜在的無意識、という考えから受けるユングの世界観にしても、やはりその点について考える必要があるのでは、と私に思わせるものであった。

翻訳者の解説は熱く続く。

『 パイ ドン』 は 最終 的 に、「 私 自身」 という 魂 の あり方 が 定位 する イデア の 地平 を 論じ、 それ を 超える 彼方 を 指し示す。 そこ では、 個々人 という 縛り や 時間 の 限定 も 消失 し、 宇宙 や 万物 の「 ある」 の 根拠 へと 私 たち の 知性 を 超 出さ せる。 後 に プロティノス ら 新 プラトン 主義 の 哲学者 たち が「 一 者 との 合一」 として 目指す 存在 の 彼方、 自己 の 消失 点 が、『 パイ ドン』 に すでに 暗示 さ れ て いる の かも しれ ない。
同上(Kindle の位置No.3514-3518).
一者、あるいは一で思い出すプロティノスであるが、後世「新」などと呼ばれ、もともとのプラトン主義をベースに進歩しているのかもしれないが、あくまで「違った」ものである、というような名称を得ている「新プラトン主義」は、たぶんブラトン本人の文章より、「より神秘主義よりだ」という評価があるのだろう。そもそも哲学で「魂、あるいは神秘主義的なものを語りたくない」という勢力、神秘主義は「学問ではない」という位置に居たい後世の主流の感じ、FEELINGのような、すこし見下した感じがしてしまうのは、私の偏見だろうか。

プロティノス本人は、なにが「新」であるのか、私はプラトンの言っていることしか言っていない、という風に思うのだろうが、このあたりからも「神秘主義」全般が受けているしうちを感じるわけである。

だが、その根っこには、池田さんがおっしゃっていたとおり、死を知ることは生者にはできない、いままでの人類史で死にそうになって(たまたま)生き返った”臨死体験”を死後の世界を垣間見た、という風に思う”おっちょこちょい”な意見はあるにしろ、「生きている人は死がわからない。死体はあっても、そこに死はない」、ということを、徹底的に突き詰めてゆくことしか、私には、我々には、できることはないのだろう。

・・・もしかしたら”一”にはできるのかもしれないが。

(答えのないことが想定される問い、というものは、存在自体にロマンがありますね。。さしみこんにゃく300gは、けっこうボリュームがあり、正直ちょっと飽きましたね。。。(´;ω;`) さしみこんにゃく食べすぎ、という局面には、あんまりロマンはない気がします)