夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

プラトンと“悟り”。

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今朝の体重66.1kg、体脂肪率12.1%。危険水準だ(笑)。

 

プラトンは有名な第七書簡の一節において「この(超越的領域に関する)問題については、私自身は未だ嘗て著述したことはなく、また将来とても決して著述することはないであろう。何故ならばこの領域は諸他の学問とはちがって、絶対に言語によって詮表し得ざる性質のものだからである。人が永き歳月に亙ってこのものに親昵せるのち、それは突如として(eksaiphnes),
恰も飛び散る火花から突然に燃え上がる火のごとく、魂の中に生誕し、成長して行くのである」と明確なる断定を下し、更に進んで、若し存在のかかる至高処を万人のために詳説せんとしても、その試みは大多数の人々にとって全く無意味であるばかりか、却って有害ですらあろうと言っている(Epist.Ⅶ、341 C-E)。

井筒俊彦 神秘主義 P.115-116


野狐禅、という言葉がある。小悟は数知れず、ともいう。

悟った、と思ったが、そのことに魅入られて戻ってこれない、と(客観的に)見える世界もあるだろう。

プラトンはそのことを言っている気がする。古くオルフェウス教の秘儀などを思い出しても、秘儀などともったいをつける理由は多分、全ての人にそのまま受け入れられるようなことではなく、ある程度の精神のステージ(魂といってもいいかもだが)に居ることが条件になるからなのだろう。

プラトンが「却って有害である」と言っているのはそのあたりだろうか。

そういうところが、「自分が希望すると”あなたはダメ”と言われるのではないか」という心を私を含み多くの人に起こさせて、選民だ、とか、なにを偉そうに、といった反感を生みがちなのだろう。つまりややこしいことが起きるし、”有害”なのである。

オルフェウス教の秘儀はその内容が伝わっていないとも聞く。

そういわれるとなにか「魔術」のようなものか、という気がするものだが、たぶんシュタイナーが説くような世界観、死生観、のようなものではないか、と思っている。

池田晶子さんも、生とはなにか、死とはなにか、魂とはなにか、といった問いを問いとして続けて考えてらっしゃいましたね。。)