夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

例によって、Amazon投稿失敗時の予備として。(池田晶子 事象そのものへ!)

新装版の出た”事象そのものへ!”のレビューをアマゾンに投稿した。最近は余り長くならぬようにしている所為か、掲載されてはいるが、今回はちょっと長めで心配なので、念のためここでもいつものようにバックアップ。以下投稿内容。



もとより書くこと考えることなど、生の余剰でしかないのだから。

本書あとがきで池田さんはそう述べる。まっとうなことをまっとうなことばで、真っ正直に語りたかった、とも。そして自らの試みを学術用語で言い換えると、”世界に生起する諸事象を普遍的意識による個別的現象形態として認識し、それら全事象の存在論の、詩的言語による体系化の試み”となると述べられている。ここで気が付いた。池田さんが文章を綴る感覚は、詩を書いている、という感覚なのだと。砂漠に消えたランボーのような。自身が詩人でもある大峯顕氏との対談にて”この人は本質的に詩人じゃないか”と指摘されてもいるではないか。
そして小林秀雄が自分の仕事を述べた「常識の深化」こそ哲学の発生するところだという気づきからアプローチする、本書末尾の「禅についての禅的考察」は又、禅的考え方への最高の道しるべだ。宝石の原石のような20代の池田さんの言葉が、確かな手応えでもってここにある。


事象そのものへ![新装復刊]

事象そのものへ![新装復刊]


Amazonでは”無敵のソクラテス”が品切れ。素晴らしいことである。あのボリュームのあの価格の本が、これだけ売れているとは。名古屋JRの三省堂では数冊売っているのをこの前見たが、皆さんネットで購入される割合も高いのだろうか。販売とはなんの関係もない僕ではあるが、自分のことのように嬉しいなあ。

無敵のソクラテス

無敵のソクラテス


少し書き足りなかったので、これまた例によって追記。

”君自身に還れ”P.18で大峯さんは、フィヒテの言葉を引いて”人間の性格の類型はたくさんあるけれども、つきつめたら人間には、自分は時空をはみ出している存在だという感受性を持っているか、自分とは時空の中の物体だと思っているか、この二種類しかない”とのべられ、池田さんは、"私はその二種類を、詩人であるか詩人でないかという仕方で分けました”と述べられる。また別の箇所でイエスは詩人である、とも。

いわゆる小学校で接する詩、というものに僕自身はピュアで無垢(同じか)に大人に見えるつぶやきを紙に書き付けるものであり、ある意味あざとい形式である、とずっと感じてきたのだが、最近言葉にしみついた観念を煮あげて抜き取った上澄みを使った、生や死を見据えたつぶやき、というものであるような気がして、詩という形式が非常に魅力的に思えてきた。そういう意味での詩人たちが紡ぐ言葉は、それは哲学とある意味同義語である、とも感じている。

なによりも言葉の存在に驚き、”はじめに言葉ありき”である人々。

うまくまとまらないが、そんなことを考えている。

君自身に還れ 知と信を巡る対話

君自身に還れ 知と信を巡る対話