死者に対する呼びかけ、ということを初めて意識したのは、
池田晶子さんが小林秀雄に対して恋文、というかたちで発表された
文章を読んだときだ。
一読、頭でわかっている「文章を通して故人に接する」という固定観念を、
なにか少し超えた部分があるように感じた。
なんだろうこれは。
霊魂がどうした、とか、死者は死んだあとどうなるのか、という部分を越えた云わば”本気”の呼びかけ。なぜそれができるのか。
なにかが引っかかったのを覚えている。
何か重要なものがそこにあるような気配、とでもいおうか。
死後が無、であればそれは無であるのだからどうしたこうしたはない。仮になにかがあるのであればそれはそのとき。
そんな死生観を池田さんはお持ちのように思う。一方で巫女、という面ももたれており、それは智あるいは知への愛、というものと繋がっていたり、2000年後の人類が仮にあるのであればそれに向けた言葉を発していたり。
云わば言葉で時間を越える、言霊タイムマシン状態の方である。
その見晴らしの広さ、に僕は大変惹かれたのだが。
そこで出てくるのが、”魂のバトン”という考え方。
考え方や行き方やあれやこれや、の総体を仮に”魂”の大きな部分とするのであれば、そのテイストも含めた”思い”のようなものを垣間見せる装置、これこそ直接の師事であれば師の言葉やたたずまい、であったり、間接の師事(私淑、ともいう)であれば、その著作が主なものとなるだろう。
池田さんの書物は常に受け取る側への”贈与”の意味が込められていた。無私、といってもいい。自分がどう思われようと、まあ、しょうがないわね、という。
典型的なところでは、有名な”がん漂流”著者へのコメントであろう。自分の生き様を人に見せるために生きず、自分で深く潜り考える貴重な時間とせよ。
そのようなものであったと思う。
この発言を受けて世間の反応は、
”死に行くものに対し、なんと無慈悲な”
という非難が主であったと記憶する。
そうした非難に、池田さんは一言たりとも言い返さなかった。
自身の状態を一言でもいえば、世間は納得したであろう。
”自らもガンに侵されている”と。
一言もおっしゃらず、逆に言えば言い訳はせず、自らの信念を述べられた。それは実はこころからのエールであったのである。
ご自身がガンでなくなられ、そうした声は当然ながら聞こえてこなくなった。睦田氏の呼びかけに答えて文通をされたのと同じく、どうしようもなくもがく魂を感じて、やむにやまれずエールを送られたのである、と後世のわれわれはわかるのである。
話が少しずれた。
”死者の復活は、決して神秘的なできごとではない。死者の強い思いは、死者を愛する人によって感得され、生者のなかに復活する”
末木文美士、読売新聞 8月22日文化欄より
”死者はただいなくなってしまうのではない。生者が呼び求めるならば、死者はいつも生者とともにいる。”
”死しても生者を導こうという広大な愛を持つものこそ、大乗仏教の菩薩だと、田辺は言う。その死者の導きに従うことで、生者もまた菩薩となる”
「君自身に還れ」のなかで、池田さんは大峯顕氏に菩薩、と呼ばれる。僧侶でもある大峯氏が、池田さんの状態を知ってか知らずか、(たぶんご存知ではなかったかと思うが)そのように呼ばれた。池田さんの姿勢から自然に出た呼びかけであろう。
このような”菩薩”のリレーこそ、”魂のバトン”と同義であろう。先人の手渡されたバトン、自分には重く理解は困難であろうが、それがバトンであることに、意識的でありたいと思う。
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