夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

そのときあなたは何を食べた?世の中全て心意気。

内田樹先生の「街場のメディア論」を読んでいる。

で、思ったこと。メディアに限らず、結局この世は、"こころ意気”だな、と。

矜持、意地、責任感。いろいろ言い方はある。
また、仕事の場合は、天職(CALLING)、召命されたもの、などという言い方もある。

人に言われていやいや"やりたくないがやる”というのが、様々な仕事のほとんどのきっかけだ。だがそのきっかけはきっかけとして、心象としてはベタな表現であるが、”やらねばならぬ””ワシがやらんと誰がやるんじゃ”という気持ちをこころの一番ベースのところに置いて取り組むこと、これがすべからくどんな場合でも必要であり、そして人はそういう風に思ってなされた事象と、そうではない事象を、見誤り勝ちではあるが、最後の所では直感している。臆見、ということばで表されるものを取り去ったところ。ソクラテスのいう産婆術、というのも、こういう根っこのところ、人が知らずに拠って立つところを、技術的に取り出してみせる手段でもあったように思う。

そして今、メディアというのはそういう使命感のようなものが欠けている仕事が多く、じつはあからさまに感じることができるそのことの悪臭が、テレビというメディアから人(とくに年古りし人)を自然と遠ざけせしむる、ということになっている。そして同じく新聞も。本質的な存在理由のない言動や文章。自分を脇に置いて、他人を批評する、という態度が根っこのスタート時点にあるかぎり、人は結局そういうものを求めない。政治についてもそうだ。この人間は結局なにをベースにおいているのか。
最後のところで世襲(身すぎ世すぎ)であれば、”まあ、お互い食っていかなあかんですわな”といういわばお情けでしょうがなく選ぶ。そういうのが多すぎると、食傷気味となり、言われないところで選挙に行く理由が出ない。

すべてがそうである。そんなこんながスタンダードである中、極たまにそうでは無い魂が、キラリと光ることがある。そういう魂を見つけたとき、人はどうしようもなくそれに惹かれる。本物がいた!というヤツである。

僕にとって池田晶子という文章家はそのような人であった。ふと手にしたエッセイで読んだ言葉が今も頭を離れない。

”そのときあなたはなにを食べた?”

自分のことを棚にあげて、書かざるを得ない職業形態であることは、仕方ない。だが、自分が所属する会社の運行する列車が事故を起こしたとき、たまたま宴会をしていた事をあげつらう前に、その記事を書く自分はではそのとき何を食べていたのか。

自分を意識的に安全圏において、”偶々””言われるべき”立場になった人の食べたものを糾弾する。

そのことに意識的であれ、そうでなくば人に伝わるものは書けない、と池田さんは言った。

たぶんメディアにいる者は、”人のうわさも75日”というものがベースになっているだろう。自らの食い扶持を稼ぐため、犠牲が必要だ、だがまあ安心せよ、どうせ読者はすぐに次の話題に行ってしまう。

読むときの覚悟もまた、ないのだ。

メディアは覗き屋の親玉で、世間の覗き屋にネタを供給しているのだ。

そんな共同正犯のなかにメディアは成り立っている。

そういう前提条件のなかでやり取りされることばは、本質のところでは価値がない。それは結局、飽きられる。

しかし、マンガというメディアがそのコンテンツから善いの悪いのと言われた時代から、マンガ、という形態は別に良くも悪くも無い、コンテンツがよければそれは良いのだ、とやっと言われるようになったのと同じく、新聞やTVという”形態”自体は別によくも悪くもない。そのコンテンツが問題なのだ。

そのことにみんなが思い至ることにまた、なるのかもしれない。

それをあるいは”成熟”と呼ぶのかもしれない。

街場のメディア論 (光文社新書)

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