考えのスケール。ということを考えた。
スケール、とは定規、あるいは基準といったことをイメージしている。
小林秀雄に「考えるヒント」があり、我が私淑する池田晶子さんにも小林の著作をベースとする「新・考えるヒント」という名作がある。考えるときのヒントという意味では、考えだすためのきっかけ、というものはあったほうがいいだろう。
最近思うのは、”一歩目のしんどさ”である。日記を書きだすのも、勉強をスタートするのも、絵を描くのも、1歩目に心理的ハードルがあり、乗り越えるためのエネルギーが必要となる。とにかくスタートしてみると、なんとなく進んでいく、ということになる。実際のものの移動や起動でも、初動に一番力が必要となる。
ヒントが必要だが、そこでヒントを思いつくために決まった規定や”ものさし”があれば、そこに機械的にあてはめて、そこでの差や反映、そこから見えること、というものがあるといいのでは、と考えたのだ。
例えば最近の私のなかでは、
①鈴木大拙の禅的水平への考えの広がり
②マイスター・エックハルトの神秘論的垂直への考えの広がり
③①と②を網羅する意味での”一”あるいは”無境界”といったもの
がスケール(定規)となっている。そこから物事をみたときに私の中で起こる反応をヒントとしている。
新聞の投書欄を読んでいて、我々/私が普段接するメディアについて考えた。
新聞(私は現在は読売を購読)を若い皆さんが読まない、ということが言われて久しい。読み物という意味では新聞と雑誌の関係は、TVとユーチューブの関係と似ている。新聞では日本では宅配制度が整備されているので、昔は家に配られ置いてあるメディア(誰かが意思をもって置いている、というよりは、自然とあるもの)であった。新聞を作るのは、新聞社の社風や毛色があるものの、集団の”見えない新聞人”である。一方の雑誌は、もちろん複数の編集者がいるのだが、雑誌自体や記事のテーマがあり、独自の色が強い。集団というよりは”個人発信”に近い肌合いのメディアである。雑誌を購読する、という行為は、家族ではなくより個人的な判断をもって行う行為である。
TVとユーチューブの関係も似ている。TVは対象を大衆という不特定多数としており、作る側も新聞と似た集団、という印象となる。一方でユーチューブに代表されるSNSメディアは、個人が作成、基本的には視聴する個人に選択して貰うものとなる。つまりより個人向けとなり、雑誌と似た形態で提供され受領される。
紙と電子はアクセスしやすさの差があり、雑誌は苦戦している。欧米では新聞の個配制度がないと聞く。そこでは新聞はスタンドで買う、デイリーな雑誌といってもいい。日本においての国民の新聞への信頼度は高いのだが、欧米ではあまり高くはない。これは新聞が対象とする読者層の差(一般家庭=日本か、ゴシップ好きの都会人=欧米か)と、到達度合い(個配で家に毎日一定時間に届く=日本、通勤途上で気がむけばスタンドで購入=欧米)の差から来るものかもしれない。新聞はなんとか個配制度が維持できているので、新聞に馴染みのある高年齢層に対してはある程度の存在感を示している、ということになろうか。個配制度が維持できなくなったら(購買数が減れば当然そうなる)新聞は新聞の役割を終え、雑誌の一部となるであろう。
新聞と雑誌は、それを受け身で受領するか、本屋に積極的に買いにゆくか、の差が出る。TVとユーチューブ等はある意味逆であろう。TVは受け身、チャンネル選択は可能だが、例えば”面白い番組がない時間帯(個人的には休日の昼等)”には、見るモチベーションが消失する(受け身であるが故の強制力、到達力の弱さ)。ユーチューブは雑誌のように個人の嗜好に合わせ選択可であり、かつアクセスはスマホで24時間可能である。トイレでも、列車中でも、飛行機の中でも、歩きながらでも。依存していれば強迫的に情報を摂取する場合もあるが、基本的には積極的な恣意的なアクセスである。
所詮はすべて”コンテンツ”を受け取り、消費する行為のバリエーションなのだ。一番楽な方に最終的には流れるのはあたりまえ。今は”個人的に見たいコンテンツを、いつでもどこでも何時間でも、コストをあまり意識せず(サブスク的に)、それを見ていることを他人にあれこれいわれず受領できる”ユーチューブに代表されるWEBによる情報入手がもっとも楽で快適である。なので、人が結局そこに流れこむのは、当たり前というしかない。
同じく狭い世界で考えるのであれば、漫画と例えばいわゆる”本”というところでも、”所詮はコンテンツ”ということがうやむやであった時代があった。
昔はマンガは下品でできれば接するべきではないメディアだと目の敵にされた。私は不思議でならなかった。小説も、漫画も、TVも、雑誌も、絵画も、論文も、すべては所詮コンテンツである。メディアによる”傾向”はあるものの、本質的な差異はないはずだ。今のマンガの隆盛をみるにつけ、そして深堀りした日本のマンガコンテンツが世界的に受け入れられている状況をも見るにつけ、その想いが正しかったことを感じている。本質は、コンテンツが面白いかどうかである。
こうした”全てはコンテンツである”という視点を得るには、例えば前述した”すべて一である”ということや、”すべてには本来なにも境界がない”、といった考え方を、身近な日常生活にあてはめてみることをきっかけとした。
このように”考えのスケール”という視点が、自らの考えや視点をひろげたり、変えたりするきっかけになるものだ、というふうに現在感じているところだ。
(自分の思考の癖から離れ、第3者的に自らの想いを評価する、という感じでしょうか)