夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

死の想念。

引き続き、”考える人”を読んでいる。

フッサールハイデガー”の項の初め、ここは実はたくさん在る本書の読みどころの中でも異色の部分。
読んでいて、この部分だけが飛び出してくるように、感じた。

若葉をめぐって、ふときざした”死の想念”。

一瞬の形を取った永遠を切り取る、という言葉の働きを感じるのは、このような文章に出会うときだ。




同じことは対談集”君自身に還れ”の初めで、大峯顕氏が池田さんに語りかけている。

”ずいぶん前のものですね。そういうことも書いたかなあ。”(P.11)

池田さんの反応は、・・・ちょっと恥ずかしげであったりする。

君自身に還れ 知と信を巡る対話

君自身に還れ 知と信を巡る対話

大峯さんとの対話は、詩人としての大峯さんのこの感性と相俟って、池田さんは安心して語り合っている。

語り合える、ということが既に稀有の機会だったのだろう。
伝わらない、の焦燥が、日々どれほど池田さんを疲れさせたことだろう。
そうでは無い相手と語る嬉しさを、池田さんは発している。

死を一瞬思った。数えた。

”なぜ知ることを愛するかというと、知ることにより人生が知られるからであり、「知る」とは、この人生の何であるかを知るということ以外の何ものでもない。”
         (同書 池田さんによる”あとがき”より)

死を想念した池田さんの境地は、小林秀雄が、”無常ということ”のなかで、一瞬掴んだ永遠の手ざわりと、同じ感触がある。

一瞬とは永遠であり、それはするりと手をすり抜けていってしまったりする。



若葉からふと死を”数えた”池田さんが、今の生から、我々の前から、

・・・すっとすり抜けて行かれたように。